伝わらないのか届かないのか分からない

Heart-Beat Motors―悩みが人を強くする

*

基本、東京ガスのお弁当編CMを見て号泣する人は良い奴だと信じてる

【概要】

  1. お母さんのビデオメッセージの話は泣いた。
  2. マザコンとファザコンって実は誰にでもある要素だと思う。
  3. そのまま映画化決定しても良さげな内容が結構あることに驚き。

 

これは泣いた、本当に感動した。

【内容】

母の泣ける話ください

1:2008/04/07(月) 12:27:24 ID:
昨年暮れに母を亡くしました
当時は辛い日々をおくっていましたが
今では普通の生活に戻れました

母親の泣ける話をください、時には泣いてすっきりしたいです
コピペでも創作でも実話でもかまいません
よろしくお願いします。
4:2008/04/07(月) 16:02:10 ID:
探したらあった


私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、
とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。
母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。
後悔で涙がこぼれた
7:2008/04/07(月) 22:09:06 ID:
母のことを文にするのは人生で2回目だ。
一回目は・・小学校6年生の時の参観日の『家族について』で母のことについて書いた。
今日で2回目だ。私が小さい頃から母は精神的な病気で入退院を繰り返している。
『育児ノイローゼ』だとか『精神分裂症』だとか聞かされていた。
自分のことを『私はマリーアントワネット』だ。とも言っていた。
小学生の頃、『今日からこの家に帰ってこなくていい。』と捨てられた。
でも帰る所のない私は家へ帰った。
ドアを叩いても出てくれない。小さなボロいアパートだ。中に居るのはわかる。
夜遅くになり、電気が点いた時にドアを叩くと何もなかったように中に入れてくれた。
その月に入院が決まった。
入院する直前には、家族のこともわからなくなり、敵視されていた。
『どこか知らない場所に連れて行かれてたまるもんか!!』と・・。
収拾がつかないので、救急車で母を病院に連れて行った。
暴れていた。『殺されるっっ!!』とも叫んでいた。
小さいながらにも痛々しくて、涙が出た。
もう母に会えないんではないかと・・。
救急車に運ばれて行ってからの部屋はガランとしていた。
家はとても貧乏で父が家に帰って来なかったら食費すらなかった。
週に1,2度しか帰って来ない父。食事も貧相なものだった。
でも、病気の症状が出るまでの母はとても明るく振る舞い、『今日はお母さんお腹空いてないから、あんたらいっぱい食べ!!』と笑っていた。
家にお金がある時に見よう見まねで作らせてくれた、私の料理を残さず食べてくれた。
母がいなくては生きていけないとさえ思った。
なのに・・今、あなたのことを恥じている自分がいる。
なぜ、あなたの子に生まれたのだろう?
なぜ、自慢できる母じゃないのだろう?
なぜ、あなたは病気なの?
なぜ、自分は捨てられたのだろう・・と。
もう何年、喋ってないだろう。
今は社会復帰もできない母。
私の名前を覚えているだろうか?
顔を見て『あき』と呼んでくれるだろうか?
あの一番最初にあなたのことを書いた時には、あなたが居たかどうかは覚えてません。
でも、あなたへの手紙を書いていたのに泣いて読めなくて先生に読んでもらったことは覚えている。
本当に大好きだった母。私はまだ、あなたにかける言葉が見つかりません・・。
なんて呼べばいいのかもわかりません。
あなたは私のこと、覚えてますか?
8:2008/04/09(水) 05:00:36 ID:
私の父は私が5歳のときに白血病で亡くなりました。
それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒をみるようになりました。
母は、仕事を始めてからは料理はしないし、
洗濯もしないので、家事は全て祖母がやっていました。
だから私は母親の手料理の味を覚えていません。
母はそういう面では母親らしい人ではありませんでした。
でも私はそんな母が大好きでした。
身だしなみにすごく気を使っていたので友達のお母さんよりも綺麗でした。
音楽やファッションもわりと若々しく、友達のような感じでした。

そんな母が、乳癌だとわかったのは私が小学校6年生の時でした。
そのときは本当に驚いたのですが、手術をすれば大丈夫だと思っていたので
お母さんはすぐに元気になるんだ、と思っていました。
そのとおり、摘出手術をしてからは仕事にも無事復帰。
通院は続いていましたが、私は根拠のない大丈夫を信じていました。
私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に転移しているのがわかりました。
私は癌に全然詳しくなかったので、また手術すればすぐに治る、と思っていました。
しかし、容態は良くなる気配を見せず、母は見る見るうちに衰えていきました。
仕事も辞め、家と病院を行き来する毎日が続きます。
抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、吐き気がひどかったりすることもありました。
そして私が中学二年生の夏ごろから入院生活になりました。
それでも心のどこかでわたしのお母さんが死ぬわけない、と思っていました。
最初の頃はたくさんお見舞いも行きましたが、だんだんその回数も減っていきました。
冬のはじめのある日、母から電話がきました。
「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」
すごく疲れた声でした。
(つづく)
9:2008/04/09(水) 05:03:22 ID:
(つづき)
それから一週間後の早朝に、母は亡くなりました。
母が亡くなる前日の夜、なぜか私はすごく不安になり、しばらく眠れなかったのを
覚えています。
祖母から電話がきて、早く弟と一緒にタクシーで来てといわれ、弟とタクシーで病院へ
向かいました。
そのときは全く実感がわかなく、そして弟を不安にさせちゃいけないと思い、
すごく冷静だったと思います。
母の病室のある階につき、祖母の震えた声で私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、
糸が切れたように涙がでてきました。
あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ、と。

亡くなる直前の母は、モルヒネによる副作用で、幻覚がみえたりして
とてもやつれていたそうです。
だから本当はあまり私や弟にお見舞いにきてほしくなかったそうです。
髪の毛がないこともたぶんとても気にしていたと思います。
最期の最期まで、母は私の母らしい人でした。

祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、
○○(弟の名前)が高校卒業するぐらいまでは生きたいな、と言っていたそうです。
その話を聞いて、また涙がでました。

お母さんに会いたいです。
会ってたくさん話したいです。
学校のこと、部活のこと、音楽のこと、たくさんたくさんきいて欲しいです。
以前より成長した今の私なら、お母さんとたくさん語れる気がするよ。
これからはおばあちゃんの手伝いをしたりして、お母さんに心配かけないようにするね。
今でもたまにお母さんの夢をみて泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。
次に会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。
おもしろい話たくさん用意しておくね。

長文・乱文すみませんでした。
読んでいただきありがとうございました。
17:2008/04/14(月) 13:03:17 ID:
死んだばあちゃんが言ってた。
「特攻隊の兵隊さんたちは敵艦に突っ込む時、怖くて叫ぶんだよ。
でも、テレビみたいに天皇陛下バンザイ!何て誰も言わない。
みんな『おかあさーん!』って叫びながら死んでいくんだよ」
男が最期に帰る場所は、やっぱり母親かな・・。
21:2008/05/03(土) 14:35:29 ID:
私が吉原で体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
スポーツ新聞を読みつつ聞き耳をたてていると、全盲の息子が筆下ろしをしたいと言うので
付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」
となだめていた。
暫くたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
革靴はピカピカで結構いい服をきている。この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈したあと、「どうだった?いいこと出来た?」
青年「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
実は姫を指差すつもりが別の方向だったので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら「あんたよかったね~!!」と背中を何度もさすっていた。
客も拍手したり「よかったなあ」と激励していて、今まで無口だった893風の客まで立ち上がって
青年の肩をポンポン叩きながら「あんたも一人前の男になったぞ」と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い私は新聞で顔を隠しながら泣いた 。
22:2008/05/06(火) 04:00:11 ID:
仕事帰りに乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。

ある夜、駅ロータリーでいつものように客待ちをしていると血相を変えたリーマン風の男性が「〇〇病院まで急ぎで!」とタクシーに飛び乗ってきた。

男はどこかに電話をかけているようだが、相手が受け取らないようだ。
ヒーヒー言いながら男は平静を保っていた。しばらくすると男の携帯が鳴った。

男「もしもし!母ちゃんの様子は?…。
そうか、頼みがあるんだけど受話器を母ちゃんの耳にあててあげて!…。」

優しいが芯のある声で男が勇気づけるように語りだした。

男「おいおいいつまで寝てる気だよ、
朝散々人のこと叩き起こしてたくせによ。

今せっかく働いて、美味いもん食わしてやろうと毎日頑張ってんのに、」

「おれまだなんもしてねーよ!死ぬんじゃねーよ!おれが手握るまで息してろよな」と言って切った後、男は黙りこくっていた

23:2008/05/06(火) 04:00:41 ID:
しかし病院までの道のりはかなり遠い、男の苛立ちを背中でヒシヒシと運転手は感じ、信号を避けるため裏道など利用し最善を尽くした。

しばらく走ると再び男の携帯がなった

男「もしもし…そうか…わかった…もう着くよ」そう言い電話を切ると男は黙りこくった

そうこうしているうちに病院に着き、男は運転手にお詫びを言い病院の中に消えた


私はタクシーから降りる間際、お金を渡し、涙ぐんでこう言った「覚えていてくれたんですね。これはあの時払えなかった運賃です。ありがとうございました。」

24:2008/05/07(水) 22:47:15 ID:
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった
母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに
遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての
プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは
招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ
なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の
ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて
やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
82:2008/08/27(水) 23:56:43 ID:
>>24
ふざけんなバカ
電車ん中でずっと上向いちゃって変な奴に思われたじゃねーか!氏ね
26:2008/05/13(火) 14:13:35 ID:
少しずれるかも
俺が小五の時おかんが死んだ。
まあ病死で名前が混合性結合組織病ってやつで。
そいつはいわゆる不治の病だっだ。おかんが生きてたときは
真剣に医者になって治してやるって思ってた時期もあり(ry
おかんは何回か入院して何度も生き返ってきた。
だけど、小五の二学期始まってすぐの台風の日におばあちゃんから
電話があった。
病院にいくとおかんが死んでた。先生が必死に蘇生させてた。
俺はおかんに「俺が治すって言ったさ」ってずっと言ってた。
告別式もおかんが好きな家でやった。
葬式なんてどうせ生きてるやつの自己満足だなって感じた。
その後からずっと家族が暗かった。
おかんの姉(以下おばさん)にそれからずっと今まで励まされてた。
クリスマスも誕生日もいとこの行事も俺たち兄弟が寂しくないように
誘ってくれて、本当のお母さんみたいになってた。
時間がたって俺のおとんが再婚して引越ししなきゃいけなくなって
俺がおかんが好きな家を売るのを渋ってたら、おばさんが慰めてくれた。
そのおばさんがおととい自殺した。
俺は今でも頭がパニックしてて、こうやってちょうどいいスレを見つけて
書き込んでる。
おかんもおばさんも天国で姉妹仲良くしてるといいな。

場違いかも
泣けなくてすまない
29:2008/05/21(水) 22:00:31 ID:
こんなスレあったのか。
俺もつい最近めっちゃ好きだった母がなくなった。
急すぎて心の準備もなかったから最初は夢みたいな感じ。
俺には父もいないし、病院での手続きにはじまり葬儀の手続きなど
忙しく時間がすぎていくな。ふとした時に涙がでてくるわ。
泣いてたら心配されるかもしれんけどいきなり涙でるし許してな。
涙でるのは優しすぎたからかな。
悲しさもあるけど母さん一人でここまで育ててくれた事の感謝の気持ち
でいっぱいです。ありがとう母さん。
34:2008/05/29(木) 23:35:03 ID:
15年前の話です。

今でもそうだが人付き合いの苦手なオレは、会社を辞め一人で仕事を始めた。
車に工具を積み、出張で電気製品の修理や取付の仕事。

当時まだ携帯電話は高価で 俺は仕事の電話をポケベルに転送し、留守電を聞いて
お客さんに連絡するという方法しか取れなかった。生活さえギリギリだった。

ある日 母親が九州の実家から関東の俺の家まで訪ねてきた。遠くから来た親を
いたわることもせず、無愛想な俺、ホントにバカだ。俺を心配し、掃除、洗濯 料理を
作り山ほど食糧を置いて母は帰郷した。バカ息子は見送りもしない。

仕事から帰宅した俺は母の手紙を見つけた。「仕事頑張って下さい、少しですがこれで
携帯電話でも買って声を聞かせて下さい。」手紙にはお金が同封されていた。
手紙を手に俺は、わあわあ泣いた。 

カメラやメールなんて出来ない。メモリーも50件しか入らない初期の電話。
でもこの電話にどれだけ助けられただろう。俺には最高の宝物。

母の日に電話を送った。ちゃんとお礼をいわなければ。
「おかあさん どうもありがとう」と。
35:2008/05/29(木) 23:40:34 ID:
四つ足になりクルクルと自分の尻を追う全裸の少女、
犬顔の鬼に虐げられる小人たちの地獄絵図、
日本刀を咥えガス室内を徘徊する見たことのない獣、
大写しになった女性器、室内の壁や床から生える無数の豚の足、
上下運動を繰りかえす無人のギロチン、
駄々広い座敷の中央に置かれた泥だらけの掘削機、
ソファーに横たわる胴が異様に長い女、
暖を取るかのように寄りそい群れるエメラルドグリーンの小さな龍たち、
どこかの国の戦争の風景、天井から吊るされた位牌、
血肉と骨でできた万華鏡、雲の上から覗き込むように顔を出す子供の姿……。
38:2008/06/01(日) 00:40:08 ID:
J( ‘ー`)し
    自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子供が元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。
    元気そうな子供の姿見たり声聞いてるとね、本当に嬉しいの。
    別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。
    苦労して育てた自分の子供が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。

    悩んでる、行き詰ってる子供を見るのは本当につらい。
    何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。
    余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。
    アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。
    でも、見守るだけしかできないのはつらい。苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。
    親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。


    今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。

    今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。
    でも、つらくても生き抜いてください。
    お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。
    生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。
    アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。
    私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。
    誇大表現でも何でもありません。アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも大事です。


上のコピペ見ると泣けてくる…

かーちゃんにもらったたくさんのやさしさを誰かにあげるのが
満足に親孝行できなかった僕のせめてもの償い。

ガキの頃に悪さばかりしてかーちゃん泣かせた分、
1000倍返しにして笑ってもらおうと決めたのに…

かーちゃん、僕は元気でやってるよ、心配しないで。
貴女が一生懸命育てた息子だもん、自信持ってよ、安心してよ。

胸を張って生きていくよ、僕のかーちゃんは世界一だ、僕は世界一のかーちゃんの息子だ!って。


でも願いが一つだけ叶うならもう一度だけかーちゃんの作った料理が食べたいな。

僕が年取ってそっちに逝ったら色んな話を聞かせてやるから、のんびりしながら待ってろや!

もう一度言う、僕のかーちゃんは世界一だ!

44:2008/06/11(水) 18:08:52 ID:
俺の話、書いても良いですか?
俺は2年程前にうつ病にかかりました。服薬もしたし、会社も休んだ。
でも全然良くならないんだよ。
食事も摂れないし眠れない。苦しくて苦しくて仕方が無かったんだ。

ある夜、「もう無理だ」って思って自殺をしようと決意した。
両親が寝静まってから持ってる限りの眠剤と酒、それと包丁。
眠剤飲んで、酒飲んで、首を切ってしまおうと思ったんだ。
2月の深夜3時頃だったと思う。

家族で過ごしたリビングで最後のタバコで1服して、「さぁ、やるか」と思って。
遺書と預金通帳も用意した。暗証番号のメモも置いといた。
少ないけれど貯金があるから。葬儀費用とかはこれでまかなってもらおうと。

その時、母親の勘かなぁ トイレでも無いのに母親が起きてきたんだよね。何故か。

俺の居たテーブルの前に座って。置いてある眠剤とかを一瞥して。

何も言わなかったよね。二人して。それからどれ位経ったかなぁ・・・
母親が自分の着てたハンテンを「寒いだろ」って俺に着せようとするんだよね。

「もう子供じゃないんだから」って言ったら一言。

「年がいくつになろうと、アンタはアタシの子供だよ。
        世界にひとりしか居ない、アタシだけの子供だよ・・・」

年甲斐も無く号泣したよ。
絶対うつ病、治そうと思ったよ。
60:2008/07/18(金) 06:28:47 ID:
>>44
「@泣 」ってメルマガでそのレス読んで泣いちゃったよ~
母親の勘って所が凄いね。
48:2008/06/14(土) 04:58:16 ID:
ttp://www.geocities.jp/tomoro0206/ka-chan.html
57:2008/07/18(金) 00:06:53 ID:
長くなるけど書かせてもらいます
 
私は産まれた時から心臓がよくなくて ずっと入院していました
 
自宅に帰っても在宅酸素は欠かせず 障害者1級を持つことになりました
 
元々明るい性格でひょうきん者だった私は小、中学校 たくさんの友達に囲まれ楽しく過ごす事ができました 
 
高校の時に教室が2階になってから階段を登るのが苦しくなったりして心臓の痛みが耐えきれなくなり頻繁に休むようになりました
 
そんな時でした 友達が 『障害者』と言っていたそうです
 
耳にした時は本当に悲しくなりました
 
やっぱり自分は他の人と違うんだと
 
生きていちゃいけないんだと
58:2008/07/18(金) 00:39:47 ID:
>57
続きです
 
数ヶ月引きこもり 何回も首を吊り死ぬため『私は生きてても迷惑だよね、本当にごめんなさい』と遺書を残しました
 
でも勇気が出なかったんです
 
母が泣いてる姿が何度も何度も浮かんできたから
 
そして何とか悲しい事を忘れようとキャバに働きにでました
 
タバコを吸っては両親に心配かけ『何時に帰って来るの?』母からのメールも無視して元気なみんなに紛れ込んで障害者じゃないふりをしていました
 
それから現在仕事を辞めお母さんをしています
 
出産を終えて母を何度も恨んだ事、あの時殺してくれればよかったと思った事
 
今はそんな事思ってないよ
 
私を大切にしてくれて本当に本当にありがとう
 
本当に幸せです
 
 
出産まで詳しく書きたいけど苦情が来そうなのでここまでにします
 
挫けても頑張って生きていればいいことがあります
 
長々とすいません
 
ありがとうございました
 



64:2008/07/20(日) 00:02:18 ID:
自分で読み返して見て釣りっぽいなあと思ったけど一応実話。

九州の田舎に生まれた。母子家庭だった。
歯科技工士だった父は私が4歳の頃、くも膜下出血で他界。
自営業だったので厚生遺族年金も労災も下りず、仕事関係の機械や車のローンも有り
生活はかなり苦しかったwww

母は介護施設の職員で、土日祝関係なく働き、残業は当たり前。
夜勤も月8回ほど有り、休みは少なく、祖母が面倒を見てくれた。

その後激務で体を悪くした母は、独学で資格を取り、民間病院の医療事務に転職。
勤務時間は短くなり、身体的な負担も減ったが、正社員なのに手取りは11万。
頼りにしていた祖父母も立て続けに他界し、学校に秘密で青果店でアルバイトもした。

それなりに偏差値の高い公立高校に通っていた私は看護師を志願していたんだけど
寮のある県立看護学校ですら通える経済状況ではなかった。今思えば通えないことはなかった気もするが。
その時自衛隊の看護学生の募集を知った。採用されれば学生でも自衛官扱いで給料をもらえる。学費も寮費も無料。
もうこれしかないと思って必死に勉強した。倍率は60倍を超えていた。

合格したのは奇跡だったと思う。
もちろん合格できなくても、働いてお金を貯めて県立看護学校に奨学金借りてでも看護師になってたと思う。
これは後で思ったことだけど、この時落ちてたら良かった。

看護学生になったと同時に自衛官として採用され、東京にある自衛隊の全寮制看護学校に進むことになった。

新幹線に乗り九州から上京する朝、母は駅まで迎えに来てくれた。
私はまたいつでも会えるだろうと思っていたが、母は最期の別れのような顔をしていた。私はそれを笑い飛ばした。
ただただ希望で胸がいっぱいだった。



つづく
65:2008/07/20(日) 00:04:39 ID:

自衛隊での看護の勉強は厳しかった。採用されたからには必ず3年後の国家試験に合格しなければならない。
1限目から7限目までぎっしり授業が入っていて、沢山の課題やレポートや試験勉強に追われた。
自衛隊だけあり礼儀に厳しく、門限もあり、自由に外出もできなかった。
自衛隊中央病院での実習もハードで、同じ部屋のルームメートは2人とも辞めてしまった。

忙しくて母と連絡を取る余裕もなかったが、実家に毎日8万の送金は必ずしていた。
無事に国家試験に合格した私は2等陸曹に昇格した。
休む暇もなく自衛隊病院での勤務と幹部候補生試験の勉強に追われた。
その試験に受かって尉官になれたら故郷に帰ろうと思っていた。
毎月に一度の送金すら面倒になり、半年に1度60万送金するようになった。

陸官になれた時には、九州を出てからもう8年が経っていた。
8年と考えると長いが、勉強と仕事に追われた自分にとってはあっという間だった。
もう8年も母に会ってないんだと思うと不思議な感じがした。
あの駅で別れた母がもう8歳も歳をとったのかと思うと想像がつかなかった。

だが、東京と九州は決して短い距離ではない。
なんだかんだで結局故郷に帰れず、いつの間にか30を迎えようとしていた頃、叔父から電話が来た。

母が他界した。胸部大動脈瘤。享年63歳。

新幹線に乗り九州から上京する朝、母は最期の別れのような顔をしていた。私はその意味がようやく分かった。

10年ぶりに母と再会した。当たり前だが、母は10歳も年をとっていた。
こんなに老けたのか、と思った。私の記憶の中の母とのギャップに落胆した。

どうしていつでも会えると思っていたんだろう。どうして東京になんて出たんだろう。
10年も、母に会えなかった。最期の10年を一緒に過ごせなかった。母は一人寂しく10年を過ごした。
苦労して育てた一人娘に死ぬまで10年会えず、娘の結婚相手にも会えず、孫の顔も見れずに死んだ。10年前に戻りたいと思った。
ただ10年間お金を送金し続けただけだ。その金額は1000万を軽く超えていた。親孝行ができなかった。
時間を取り戻したいと思った。

私は退職した。実家から一番近い民間病院に就職した。母が事務をしていた病院ね。
師長に「あなたみたいな立派な経歴の人がなぜこの病院を?」と聞かれたとき
自分の10年が無駄なものだったことを再確認した。

母がよく私を話をしていたと、事務の女性から聞いた。
私を東京に出した時点で、簡単に会えなくなるだろうということは分かっていたらしい。
私に会えなくて寂しいと何度も零していたらしい。それを聞いてまた泣いた。後悔ばかりだった。

それから4年たった。私は結婚した。働き者で真面目で優しい人。
母に会わせたかった。悩みといえば義母とかなり仲が悪い事と、子宝に恵まれないことくらい。結構重大な悩みだよね。
いまだに後悔は続いているが、母のためにもこれからの人生を精一杯生きて行くことしかできないと
70:2008/07/28(月) 19:35:28 ID:
まだ高校1年生の時の話です。
私は演劇部に入ってました。
強豪校だったので、練習はきつくて、毎日のように先輩方に怒られて、先生にも
散々に言われて。
でも絶対にこの人たちの前では泣くまい、泣いて堪るもんかって思ってました。
自転車を漕ぎながら、声を殺して泣いていました。

そんな中で一度調子を崩して、3日ぐらい休んだんです。部活を。
でも本番前なんだから出なきゃいけないのにって思い詰めてしまって、逆に悪化
してしまったんです。厳しい部活だったもので。
どうしようどうしよう、先輩とか先生に何て言われるか分からない、孤立したら
どうしようって母に泣きながら聞きました。
そうしたら、母は私の手を握って言ったんです。

「大丈夫、ママはちゃんと○○(私の名前)の味方だよ」

その一言で涙腺が崩壊してしまって、夜中ずっと泣いてしまいました。
結局その後、本番はちゃんとやってから転部して、今は何とかやってます。
母の言葉って凄いですね。
今、思い返してこれを書きながら、また涙が出てきてます。


私が6歳の時離婚して以来、女手ひとつで育て上げてくれた母。
今度は「私はママの味方だからね」って言ってあげたいです。
釣りみたいだけど、実話です。
71:2008/07/29(火) 01:59:42 ID:
私の家は母子家庭です。物心ついた頃母は夜の仕事をしていたので大体夜は一人か
親戚の家をたらいまわし。家に帰っても一人なので帰りたくない、泣いて駄々をこねた事もあります。
あの時の迎えに来た母の切なそうな顔忘れられません。
「なぜ父親がいないのだろう?」そんな疑問もありました。


中学生の頃、反抗期に入り母との喧嘩が多くなりました。
私「テメーなんか母親じゃねー」母「あんだとクソがき」私「おめーなんか死ね」母「ふざけんなよ」
売り言葉に買い言葉。
ただ今思い返すと母は私を否定する言葉は何一つ言わなかった。
十代後半まで反抗期は続き、母が嫌で嫌でしょうがなかった。


数年が経った頃、ある日母と飲みに行く事になりました。
場所は家の近くにある居酒屋。
そこのマスターと母が古い知人で私も良くお世話になっていました。
マスターと話していくうちに母の苦労が見えてきました。


自分が生まれたばっかりの頃、食べていくため血反吐を吐きながら昼も夜も仕事をしていた事、
預けたくはないのに子供を預けながら仕事をしていた事、自分が母親と父親、
両方の役割を担っていかなければいけないと考えていた事。
胸が苦しくなり、こらえていた感情が涙となりました。

母は泣いている私に「○○(私の名前)がいるから頑張れたんだよ、○○からパワーもらって」
と言ってくれました。

父親の事も話してくれました。母と父は結婚はしていないらしく、父の方には
家庭があったらしいのです。母は慰謝料ももらわずにさよならしたそうです。
なぜ慰謝料もらわなかったの?と聞いたら自分一人の力で育てたかったからと言っていました。

経過はどうあれ、それでも私を産んでくれた母に今では感謝しています。




76:2008/08/19(火) 12:28:41 ID:
これ良い話だ。ブログ見て初めて泣いた(;_;)
http://ameblo.jp/macaroni-drop/
77:2008/08/19(火) 18:23:02 ID:
子供の時はお母さんをただのケチだと思ってた。
高校生になった私はウザいとしか思わなかった。

一人暮らしを始めて、三食の食事や掃除に洗濯、なんて恵まれてたかわかった。
私が挑戦したい事はとてもお金が掛かる事だった。お母さんは少しだけ悩んですぐに私を応援してくれた。

お母さんは成人した私と姉のおさがりを「お母さんはこれで十分」と、着ていた。化粧品も親戚からもらう試供品がほとんど。

でもいつも私を助けてくれるお母さん。

お母さんは自分のものは買わないでバカな私を助けてばかり。

お母さんお母さんお母さんどうして私をそこまで信じてくれるんですか。

私はもう24才なのにあなたにまだ甘えたいです。

お母さんお母さん本当にいつもありがとう。私が強気なのはあなたがいてくれるからです。

どうか神様、私のお母さんをまだまだ元気に生かして下さい。

どうか私に時間を下さい。

大好きなお母さん、お願いだからもう少し待ってて下さい。

84:2008/08/28(木) 13:41:24 ID:
母の・・・というか、母も私たちも泣いた話。

今年6月に、父が1年の闘病生活の末他界。
1年前に倒れてからは明瞭な意識が戻ることはなく、
特に最後の1ヶ月は意識がありませんでした。
小さいときから親の愛に恵まれなかった父は
母をものすごく束縛し、母もそれに応えて
お互いが、配偶者・友人・父親(母親)役をしあって
近所づきあいや友人との付き合いもほとんどありませんでした。
「誰にも迷惑をかけないで夫婦で生きている」というのが
父なりの美学のようでした。
しかし、あんなに親を嫌がっていた父が
お骨は自宅から遠く離れた先祖代々の墓に、とのことで
元気なときから菩提寺の和尚さんに戒名を付けてもらったり
礼服を着たときに、自分の遺影用の写真を撮り置いていたりと
準備万端整えていたようです。
当然、母はいつでもお参りできるように、
自宅のそばのお寺に墓地を買って埋葬するつもりでいたので
父の遺言に落胆していました。

父の希望通り、49日の納骨を親類縁者で終え
先祖代々のお墓で永遠の眠りにつきました。

家族みんな、日本国中バラバラに住んでいるので
100か日は、母一人で参ることになりました。
一人で旅行などしたことのない母が
家にあった時刻表(しかも3年前の)をめくると
懐かしい父の文字で「○○(母の名前)へ」と書いた封筒がはさんであったそうです。
中には、自宅からお墓のある町までの道順と時刻表が記してあり
「手間をかけるが、気をつけて来なさい」と父のメッセージが…。

最後の最後まで母のこと、心配してくれていたんだね。
86:2008/08/29(金) 05:39:20 ID:
>>84
弘兼氏に送ってやんなよ。
黄昏流星群的なイイ話だ。
92:2008/09/10(水) 13:20:44 ID:
http://ime.nu/jp.

号泣した

ニコニコ版
102:2008/09/16(火) 03:17:52 ID:
母の話と聞いてやってきましたよ

母のおなかを殴った記憶がある

小学校5年生のときの、確か授業参観日だったかな
体育の授業で、親も参加してのドッジボールで、
ルールは
 親に当たっても退場しない
 子に当たったら親と一緒に退場
 外からボール投げるのは子だけ
 復活なし‥
ってかんじだったかな?よく覚えてないや

今考えると俺の母は太った体で俺のことを守ってくれてたんだな
でも当時の俺には邪魔してるようにしか思えなくて、
ゆるいボールがきて俺がキャッチしようとしてるのに立ちふさがる母
そんでね、取れなくて、悔しくて握ったコブシをね
母の腹に叩き込んだ。
そのとき母はわずかに顔を歪ませながらにっこり笑って
「ごめんね」って、言ったのよ

その日以来、母に親孝行は、してきたつもりだった

んで先月なんだけど
小4の息子に八つ当たりのようにハラ殴られたのが
ゲロ痛かったのね
肉体労働のこの俺が。
でも本当に痛かったのは、あの思い出の方で。
それと「親孝行してきました」なんてツラ下げて生きてきた俺の姿を思い返して
ホント吐いた。嗚咽したよ

息子びびってたね。
でも思春期になったらコイツ俺のことナメて来るんだろうな
そのとき俺はどうするかわからんが

あの時母は にっこりわらったんだったな


母はまだ元気だ
でも、過ぎた日を取り戻す親孝行なんて できない
母生きてんのに 生きててくれてんのに

だからこの辛さを一生胸に刺したまま
母と、
この体に流れてる血と、
そしてこの血脈を継いでくれた妻と息子の幸せを
一生懸命考えるよ
ってなことを丁度思ってたところでしたよ

長文駄文でごめん
108:2008/10/29(水) 22:34:00 ID:
俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・

病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。
そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、
就職決まった時、
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。
110:2008/10/31(金) 22:32:12 ID:
サキちゃんのママは重い病気と闘っていたが、死期を悟ってパパを枕元に呼んだ。
その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。
 このビデオの1本目は、サキの3歳の誕生日に。2本目は小学校の入学式に。
 そして3本目は…○○○の日に見せてあげてください」
まもなく、サキちゃんのママは天国へと旅立った。

そして、サキちゃんの3歳の誕生日。1本目のビデオがかけられた。
(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出される)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。
 でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、こうやってしか会えない。
 パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いに来ます」

サキちゃんの小学校入学の日。2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう……。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。
 サキちゃん、ちゃんと聞いてね。
 ママが今住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。
 でもね、パパのお手伝いがちゃんとできたら、ママ、もう一回だけ、会いに来ます。
 じゃあ、魔法をかけるよ。 エイッ!
 ほうら、サキちゃんは料理や洗濯ができるようになりました」

そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。

新しいママが来た日のサキちゃんに

そしてサキちゃんが10歳の時、パパは再婚し、新しいママが来た。
3人いっしょに、3本目のビデオを見つめた。
なつかしいママの顔が映し出された。
「サキちゃん、おうちの仕事、がんばったね。えらかったね。
 でも、もう大丈夫。新しいママが来たんだから。
 ……
 サキちゃん。今日で本当にお別れです。
 ……
 サキちゃん、今、身長はどれくらい?ママには見えない。
 (泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る)
 ママ、もっと生きたい…。
 あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい…。
 あなたの成長を見つめていたい…。
 じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。
 それは、『ママを忘れる魔法』です。
 ママを忘れて、パパと、新しいママと、楽しい暮らしをつくってください。
 では、魔法をかけます。1、2、3、ハイッ!」
そこでビデオは終わった。

しかし、サキちゃんに、この魔法は効かなかった。
パパと、新しいママにも効かなかった。
ママは、みんなの心の中に、ちゃんと残っていた。

そして今度は、サキちゃんが主役の、4本目のビデオがつくられたのだった。
天国のママに見てもらうために
112:2008/10/31(金) 23:41:44 ID:
79 :61 :04/07/27 05:37

すいません。今まで泣いてました…
厚かましいけど、書かせてくれ。お願いします、書かせて下さい…

最近はずっと起きてる。なるべく寝ないようにしてる。
寝ても二、三時間くらい。
後、俺の家族に残された一ヶ月って時間を、出来るだけ記憶に留めておきたかったんだ。寝てしまうその時間すらも惜しいんだよ。

俺に何か出来ないか、俺に何か出来ないか、そればっか考えてる。
残念な事に、俺には何も出来ないんだよ。病気の進行は容赦ない。
母さんをすぐに蝕んでいくんだ。薬の副作用で母さんの顔がむくんで、髪がボロボロ抜け落ちていった時に、
「アハハ、お母さんブサイクになっちゃったわねぇ~!!」
って、母さんは元気いっぱいに俺に言ったんだ。

俺が病室を出ると、母さんの泣き声が漏れてきた。
俺は病院の廊下で恥ずかしながら泣いたよ。
俺の前では元気いっぱいに振舞っていたのは
親心なんだって気付いたよ。母さん、俺バカでごめん。

だから、俺が出来る事って稚拙だけど、母さんの好きな芋ようかんを買っていってやったんだよ。俺はたまに買って行ってやるんだ。
母さんが病気になる前から、給料入ったらお土産で買ってくのね。
はしゃいで、顔をくしゃくしゃにして喜んで…食べながら泣いて…

日常ってとても素晴らしいものだね。些細なことでもキラキラしている。
芋ようかんですら愛しくて、ありがたくて、
涙が出てしまうくらいのものだよ。

俺はきっとこれから、いつもの芋ようかんを買う和菓子屋を通る度に その日常を思い出して、泣いて、「ありがとう」って感謝するんだろうね。本当は眩しいくらいのものなんだよ、日常って。絶対に家族ってとてもとても眩しいものなんだよ。

だから、恥ずかしくても自分の家族にありがとうって言ってやってくれ。
暖かくてキラキラしててかけがえのないもの。
俺の中では永遠に生き続けるもの。

母さんありがとう。

…もうだめぽ。スクリーン半分涙で見えねぇよ。。。
118:2008/11/14(金) 08:12:32 ID:
俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。

なので料理は基本的に父が作っていた。
でも遠足などで弁当がいる時は、母さんががんばって作ってくれていた。

でも、小学校6年の時の遠足で、見た目が悪い、母さんの弁当、を友達に見られるのが嫌でとうとう「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当はいらない!!」と言ってしまった。
母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ、うまく作れなくてごめんねとしか言わなかった・・・・。

時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、高校になってからは給食はないのでいつも昼は購買のパンですませていた。しかし、高校2年になったある日、母さんが弁当を作ると言い出した。遠足の時に作ってくれたものとは味も見た目もよくなっていた。
不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ。

と、思ったのもつかの間。肺炎で入院したかと思うとぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しかたたぬうちに・・・。母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは俺のために、定食屋をやっている知り合いの所に一年間料理を習いに行っていたらしい。

そして後日、その定食屋に行ってみた。定食屋のおばちゃんと俺は直接のかかわりはないけど、やさしそうな人だった。
そして母がよく弁当に入れていたメニュー、ハンバーグ。それの定食を頼んだ。そして、それを口にしたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
たった3ヶ月しか食べられなかったけど、たしかに母さんのハンバーグの味にそっくりなのだ。腕がまともに動かせないのに、がんばって作ってくれた、あのハンバーグの味。
形は少し不細工だったけど、とてもおいしかったあのハンバーグの味。
123:2008/12/06(土) 04:03:27 ID:
いつも明るく気の強いうるさいかーちゃんだっただけにびっくり。
俺が「まだ死ぬと決まってないやん」と言うと帰ってきた答えは余命三年と医者に言われたとの事。
確実に心臓は悪くなってるから準備と覚悟して起きましょうと言われたから喪服を作りに連れてきたらしい。
それを聞いた俺は喪服作りながら号泣。
心臓移植は莫大な金がかかるから無理だし死を受け入れるしかない。
みんなに聞きたいんだが体に負担をかけない親孝行ってどうするんだ?
旅行とかは心臓に負担がかかるから無理だし、もう少し歩くと動悸が激しくなる。
誰か教えてください…
126:2008/12/13(土) 01:27:49 ID:
小学4年生のとき
友達とちょっと遠くの公園までチャリで遊びに行く事に
なのでおこづかい頂戴って親に言ったら300円しかもらえなかった
皆1000円持ってきてるから1000円頂戴よ!って言ったら
だめって言われて、あとから親の財布から1000円くすねた。
財布に1000円しか入って無かったのに・・・
その当日の朝、靴はいてたらお母さんがきて
もう行くの?しょうがないから1000円あげるね
って言ってきた
でも当然そのその財布には何も入って無くて・・・
ごめんね。お財布に1000円なかったからあげられない。気をつけてねいってらっしゃい
って笑顔で言われた
10年以上経った今でも罪悪感で泣きそうになる

今も描きながら涙出てきた。
お母さんごめんなさい
127:2008/12/13(土) 11:18:52 ID:
夢をみた
映画のように感じる夢だった


自分が何故かはわからないけど死んでしまった
そして霊になった
霊になって家にいき、兄や母が普段と生活している姿を見ていた
別に葬式とかしているのはなくて、ただ自分がいないということだけだった
霊になったから何か出来ないかなーと思って飛ぼうと頑張ったりした
しかし30cmくらい宙に浮くだけだった
つまらなくなったからやめて、そこらへんに寝転がったりしてた
すると母親が歩いてきた
そして自分を大またで越えて通りすぎてしまった
あれ、自分のことが見えてるの?それともなんとなくそうなるようになってるの?
と不思議に思っていた

場面が変わり、母親と自分は別の場所にいた
母親は銃を持ってた
しかし特に何をするというわけでもなかった
自分は適当に母親を眺めていた
しかし、途中でどっかにいってしまった

そこでまた場面が変わり、自分は母親がいた場所に戻って母親は別の場所にいた
自分は辺りをみわたして母親を探した
見つけると、またその場所に歩いていった
途中で銃がおちてた
母親が持っていた銃だ
自分の目の前で3人組の子供たちがそれを拾った
自分は危ないと思い、それを奪ってふところにしまった
すると子供たちは自分のほうを不思議そうに見ていた
何だ?と思っていると子供たちは「銃が浮いてるよ!すげー」
みたいなことを言いながら近づいてきた
自分がもつと、そのものも見えなくなるものと思っていた
家の中のときにも自分が物をもって立っていたことがあるからだ
しかし、周りの人たちもこっちを不思議そうな目で見ている
そこで自分はどうやら家族にしか見えてないというのがわかった
自分は逃げるように非常階段のような螺旋階段のかなり広いもののような階段を昇った
そして母親のもとに向かった
母親の肩を叩き銃を持っているのをみせて、銃を返さずに床におとし蹴った
銃は階段からおちてとれなくなってしまった
母親は驚いた目でみていた
自分は母親を抱きしめた
母親も自分も泣いていた
顔を歪めて、止まらないくらい泣いていた
こんな泣き方をしたのは小学生以来だ
そして
「大好きだよ。今まで育ててくれてほんとにありがとう。銃で死んだりなんかは絶対にしないで。」
といった
母親はうなずき、しばらくその後抱きしめ合っていた
その後お互いに離して、うなずきあった

場面が変わり、自分は父親の前にいた
父親にも「ほんとに今までありがとう。」といって自分はその場にあお向けてねた
父親はそのうえに馬乗りになり、自分の首を絞めていた
この世界から本当に離れるにはこうすることだと頭の中でわかっていた
やがて自分の意識は遠のいていった
128:2008/12/13(土) 11:20:02 ID:
そこでちょうど目が覚めた
自分は泣いていた
文では夢のうろ覚えなので省略されている場所があるが、長くて本当に映画のように感じる夢だった
枕がすごい濡れていて、夢と同じくらい泣いていたみたいだった
そして起きてからも本当に悲しくて、夢と同じように顔を歪めて止まらないくらい泣いた
自分は母親を邪険に扱ってきた
そういう自分が本当に嫌になった
本当に自分が死んだときには、もうお礼など言えないだろう
母親が死んだときも同じ
すごい恥ずかしいが、近いうちに母親を抱きしめて同じことを言おうと思った
本当に言えなくなってからでは遅いから
そしてこれからは母親を大切にしようと思った

涙を拭きながら書いていたので誤字があるかもしれません
長文失礼しました
129:2008/12/16(火) 15:57:55 ID:
一度大学受験に失敗して
普段泣かない自分だけどなんか泣いた
母もそれは知ってて
期待してないとかいいながら
実際同じくらいショックだったとおもう

次に受けた大学は偏差値も数段低いし
受かること前提で前からほしかったゲームねだった
そんときはお金ないからって
買ってくれそうなそぶりもないし諦めてた

受験終わって三日経って
家に帰ると
母宛てに小包が届いてたから
なんかの好奇心で勝手にあけちゃったら
前ねだったゲームが入ってた
そんときに合格祝いにって渡す母が想像できて
泣けてきた

いい大学はいれなくてごめん
いつまでもなんもしてあげれなくてごめん

いつか自分もこんなサプライズするから
それまで元気でいてください
130:2008/12/18(木) 11:07:04 ID:
中三の頃、母が死んだ
俺が殺したも同然だった・・・

あの日、俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕飯も食べずに部屋に篭った
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたようだ、が、父親が部屋に飛び込んできたので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の親父の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげてくださいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間に外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のために母はアイスを買いに行って事故にあったとわかった

通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんな
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている
131:2009/01/06(火) 16:04:55 ID:
どこに書いていいかわからんので

母が逝った
ホントあっと言う間だった。
風邪は万病の元? 皆そう言うよね。思い知ったよ。
確かに風邪はひいてたよ。
だが1月1日朝洗濯物干してたのに3日の朝には冷たくなってた。
救急車呼んだよ。乗せるまでもねぇとよ。死後7時間くらいたってるかもだと
バカ言ってんじゃねぇ! その時間は覗いて呼吸音確認してんだよ!

そのまま警察呼んで、検死してもらったよ。
死因不明?ホントそう書いてあんだぜ、会社への連絡表に死因記入する際なんて書くか途方にくれたよ。
連絡する人する人皆絶句、親戚連中も飛んできた。皆同じ事を言う。「信じられない」と
一番信じられないのは俺達家族だ。あと本人もかも、多分絶対分かってねえと思う。


指にケガして絆創膏貼ってる。これ貼った時はまだ元気だった・・・
正月連休今日で終わり。連休入った時には考えもしなかった・・・
紅白見てた、除夜の鐘聞いた。まだ元気だった・・・

でも今いない

告別式も終わって、家ん中ちょっと片付けてこれ書いてる
親父はボーゼンとしてる。姉はまだ泣けないでいる。

2009年 なんて年の始まりだ。
133:2009/01/24(土) 15:24:42 ID:
文へたくそだけどよかったら読んでくれ
 俺が中3の時の話
 
 元々母さんは精神病を患ってた。 
でも俺が生まれる何年も前に、ほとんど完治してたらしくて、俺は全然病気の心配何かしてなかった。

 そんなある日、母さんが事故にあった。 どうやら曲がり角のところで車に跳ねられたらしい。
幸い命に別状はなかったが右腕と右足がほとんど動かなくなり、さらに動くと首にも激痛が走るらしかった。
元々活発だった母は、動いたり外に出ることができなくなって、段々うつ状態になっていった。
 
 そして、治っていたはずの病魔がだんだんと動き始めた。

 そん時は地獄のようだったよ。 俺が今まで見たこと無い母さんが現れるんだ。
毎日毎日、その日によって性格が変わるんだ、 暴れだしたり、かと思えば泣きだしたり、俺に暴言をはいたり…
帰ってきたら母さんが首に縄巻いてんだぜ? 包丁持ってたり、俺に包丁つきつけて
 「一緒に死のうか…まさ君…」って言ったこともあった。
 ホントに辛かった。
 
 親父は親父で仕事が忙しくて、ほとんど海外にいた。 頼れる親戚も兄弟もいなかった。
おまけに俺は受験だった。 いろんな不安で心が押しつぶされそうになった。
 
 これはさすがに家族には手に負えないってなって、精神病院に入院することになった。
入院先は閉鎖病棟。 面会に行った時、閉鎖病棟の隅っこで小さくなって俺の名前を泣きながら叫んでる母さん見たときはホントに泣きそうになった。

 すこしだけど良くなって、母さんが家に戻ってきた。 
叫んだりはしなくなったけど、こんどは記憶の感覚がごちゃまぜになった。
中3の俺が2歳になったり、8歳になったり、時には死んだ母さんの弟になったり…
 
 それでも行動的なところだけは昔のままで、歩けないのに歩こうとして転んで血を流すなんてしょっちゅうだっ
た。
普通なら俺がどうにかしなきゃいけないんだけど、どうしても勉強で忙しくて、見て見ぬふりしちまってた…
  
 入試前日、俺が学校から帰ってくると、母さんがいろんなところに擦り傷作って台所になっていた。
足もとには大きな買い物袋…
どうやら買い物行って来て、そこらじゅうで転んで擦り傷作ったらしい。
 
 そしたらさ、色んなとこから血出しながらサンドイッチ作ってんだよ。 俺が小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ
 「まさ君喜ぶかな? まさ君…まさ君…」 って泣きながら俺の名前呼んでんだ…
 「明日は一緒に、お出かけしようね」 とか、「明日は運動会だね」とか色々言ってんだよ。
なぜか知らないけど明日は特別な日ってことだけは知ってんだな… とか思いながらさ、
 そしたら急に泣き出してこう言うんだ。 
 「まさ君… お母さんはどうなっちゃうんだろ… まさ君…まさ君…」 
ず~っと俺の名前を呼ぶんだよ。 立ってるのも辛いはずなのに、泣きながら…
 ホントに切なかった。 

 次の日、母さんのサンドイッチを持って入試に行ったよ。 昼飯食った後の5時間目の社会。
なんでかわかんないけど眠くなっちまって、一問もとかずに眠っちまったよ。
 
 そん時見た夢はいまでも覚えてる。 俺が母さんに抱きしめられてた夢だった。
134:2009/01/26(月) 03:16:09 ID:
>>133泣いた。俺の母さんの話もしたくなったけど誰か見てくれたら嬉しい。

母が死んで今日で一年とちょっと。高齢出産だったこともあって、
俺の同年代の友達の親と比べると明らかに年くってた。
俺が「なんでもっと若く生んでくれなかったの!?」と責めたこともあった。
俺が思春期のころとにかく心配性な母がうざいのと、親父には恐くて
何も言えなかったから何でもかんでも
母に当たってた。たくさん文句言って寝ようと自分の部屋に入ったとき
母のすすり泣く声が聞こえたときは自分の不甲斐なさに気付き俺も泣いた。


お母さんが死ぬ時っていつか来るってわかってた。
でも気付いてからは遅いんだよね。そんな俺も今年で23才になる。
20才を迎えたくらいから親孝行したいなって思って
高齢出産だった母に孫の顔を見せてあげたいなって思ってた。
それで、先月生理来ない彼女が病院行ったら子供が出来てたよ。お母さん。
無事に生まれてくれたらいいな。
俺を生んでくれてありがとう。高齢出産だったから辛かったろう。
でも孫の顔見せてあげたかったな。抱かせてあげたかったな。
でももうお母さんの笑顔見れないんだよね。あの笑い声ももう聞けないんだよね。
でも俺少しは一人前の大人になったよ。学歴も無いし給料安いけど
ついに家庭を持つよ。こんな幸せなことってなかなか無いよね。

俺の子供にはお母さんからもらった優しさを少しでも分けてあげたい。
休みの日は子供といっぱい遊ぶ。俺が小さい頃のお母さんよりは
動けると思うよ。なんたってまだ俺若いからね。

お母さんが死ぬ前日に俺に言った言葉。
「今日はお風呂入ってもう寝なさい」
あの時寝なきゃ良かったな。今でも思うよ。一晩中話しとけば良かったよ。
なんで死んじゃうんだよ。お母さん。もっといっぱい甘えとけば良かった。
もっといっぱい話したかった。旅行に連れて行ってあげたかった。
それで美味しい物いっぱい食べさせてあげたかった。
次の日冷たい体に抱きしめても、声かけても何も返って来なかったよ。
お母さん、天国から俺の事見える?
俺の事もう心配しなくていいからね。子供の名前何にしようかな。
お母さんだったらどうする?明日仕事休みだから彼女とお墓参り行くよ。

最後に生きてるとき言いたかったけど言えなかった言葉。
「お母さん、生んでくれてありがとう」
148:2009/02/16(月) 22:27:15 ID:
最後にお袋有難うそして本当に今までおつかれ様でした。
お袋なら絶対天国いけるよ。
お見苦しく失礼しました。
皆さんの話で本当に助けられましたありがとうございます
このスレ主に本当に感謝します。
162:2009/03/12(木) 06:11:14 ID:
夕方をすぎても夜になっても母は帰って来なかった。遅い。遅すぎる。
まさか事故にでもあったのか‥?冗談じゃない。それだったら病院から電話があるはず‥
なんて考えていたら外で母の車のエンジンの音が聞こえた。

「ただいまー。」

いつも通りの母の声にほっとした反面、なんでこんな帰りが遅いのか問いただそうとした瞬間、
目の前にやたらと大きな薬局の袋が置かれた。

「何これ?」と母に聞くと、

重たそうなその袋を見ながら
「あんたの薬。一人暮らしするとき薬がなかったら大変でしょう。とりあえず一通りあったもの買ってきたから。あんたはすぐ体調崩すからねぇ。」

頭痛薬、咳止め、湿布や包帯、口内炎の薬、のど飴など袋の中にはありとあらゆる種類の薬が入っていた。

「こんなにたくさん‥」驚いてもうそれしか言えなかった。こんな時間まで私のために母は‥

「一人暮らしかぁー。見送ってやらなきゃいけないのにねぇ。お母さん心配でね、すごく寂しいのよ。
風邪引いた時とか本当はお母さんがそばにいてあげたいんだけどねぇ。」

もうそれ聞いて涙が溢れて溢れて、自分の不甲斐なさと母への申し訳なさで顔あげられなかった。薬だって決して安いもんじゃないのに。
自分の娘を応援しない母親なんて居るはずないのに、なんで気づいてあげられなかったんだろう。もっと応援しろだなんて‥
一番私のことを思ってくれて支えてくれたのは他でもなくお母さんなんだよね。
分からず屋でゴメン。いつもいつもいつもいつもありがとう。

その後、遅めの晩御飯を母と一緒に食べました。
残り少ない母の味をもっと大切にして行こうと思います。

読み辛い長文失礼致しました。
165:2009/04/05(日) 03:20:58 ID:
私は去年、大学入学と共に上京し現在も一人暮らしをしています。
親の大反対のもとの一人暮らしでした。

うちの母はとにかく元気で、よく笑い、よく泣く人です。
一人暮らしを始めてから、毎日のように母はくだらない理由をつけては私に電話してきました。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「電気つけっぱなしで寝てない?」
「ちゃんと暖かくして寝てる?」
「事故には気をつけてね」
母からの電話の最後にはいつもこんなありきたりな言葉を言われ
耳タコだった私は、その言葉も母からの電話さえ煩わしく感じていました。
だから、母との電話ではいつもダルそうに、素っ気無く応対していると
「どうしたの?元気ないね。」
「何か嫌なことあった?」
と、母は毎度聞いてきました。
母が心配しているのは分かっていたつもりですが、返答するのも面倒に感じ、そう思う自分に対してまたイライラしていました。


そのうち大学生活に追われ、忙しくも充実した日々を送っていた私は、口うるさい母からの電話を無視するようになり時々しか出なくなりました。
6月に入った頃からか母からの電話の回数が減りました。
やっと、子離れできたか。
私は呑気にそんな風に捉えていました。
また、たまにかける自分から母への電話が繋がらなくなり、一方的に時々、決まった時間に母からの電話がくるようになりました。
今、思えば明らかにおかしいのに、特に母に変わった所が無いので当時の私は何の疑問にも持たず、ただ日々を過ごしていました。


6月の末にお金のことで母に連絡が取りたいのに、相変わらず母への電話は繋がらずしかも母からの電話も一切来ない日が続きました。


166:2009/04/05(日) 03:21:41 ID:
7月に入り、翌日の試験の勉強に必死になっていると、また同じ時間に母からの電話がかかってきました。
試験期間中で余計にピリピリしていた私は、イライラを前面に出して電話に出ました。
母はいつも通りへらへらとしていて、それがまた私の感にさわりました。
「何でこの前連絡つかなかったのよ!すごく困ったんだから。」
いつもよりも口調を強くして母に言いました。

「あー・・・ごめんねぇ・・・」
そう一言謝ると、母は黙ってしまいました。
少し置いてから、ひっ・・・ひっ・・・と母がしゃくりあげる声が聞こえてきました。
「は?どうしたの?」としか言えない私に母は告げました。
「・・・おかーさん・・・、ガンなんだってぇ・・・」
突然のことに目眩がしました。
お腹のあまりの痛さに病院に行き、検査やら何やらで忙しかったこと。
そして、子宮ガンだと分かったこと。
手術準備の為に色々忙しくて、連絡できなかったこと。
そして、何より私に心配をかけたくなかったこと。
でも、明日が手術で自分が死んじゃったら・・・と思うと怖くて怖くて、私に思わず電話をかけてしまったこと。
最近の母の行動を思い返し、何も気づかずにいた自分に無性に腹が立ちました。
その夜は勉強も手につかず、ずっと泣いてしまいました。
急に母がいなくなってしまうかもしれないと考えると、怖くて仕方ありませんでした。


翌日、試験のことなど頭になく私は朝1番の電車で母の入院している病院に向かいました。
母は病室でお隣のベットの方と楽しそうにお喋りしていました。
病室のドアの所でたたずむ私を見つけた母のあの時のマヌケ顔は一生忘れません。
そして、「何であんたがここにいるのよぉー試験はどうしたのよぉー」と顔をしわくちゃにして泣き出してしまいました。
私も化粧が落ちるのも忘れて、「母親が手術だってのに、試験を普通に受けられる娘がいるかぁー」と言うと、余計に泣いて二人で一緒に泣きました。

手術室へ運ばれる母を見送り、私は母のベットの脇に置いてあったノートを見つけました。
中には、入院してからの母の日記が綴られていました。
自分がガンで何よりも不安だったはずなのに、その日記には自分のことよりも娘を心配する文章の方が多かったのです。
それを読みながら、母の深い私への愛情にまた泣きました。

手術は成功し、幸いガンも良性だと判明し抗がん剤を打たずに済みました。
しばらく動けなかった母も今では元気に日常生活を送っています。
そして、最低でも1週間に1度は私から母に電話をかけるようにして、定期的に実家に帰るようにしています。

どうか、親の愛情を当たり前だと思わないでください。
いつだって親は子供のことを心配しています。
そして、子には心配をかけたくないと思っています。
何か少しでも様子が違うようなら、聞いてあげてください。

長文失礼しました。
168:2009/04/06(月) 00:07:11 ID:
高校生活
家庭の事情で母の姉の家で3年間お世話になっていた

私の家は両親共働き、当時大学生の姉は遊びほうけて家に帰らず
高校生の姉は病気を患っていた

実家にいても両親は疲れており全く私と話してくれなかった
(話しかけても煩い、と叱られた。今思うと皆心に余裕がなかったんだと思う)
小学生のころから私は一人で晩御飯を作って食べていたし、
叔父、叔母がよく面倒を見てくれていた。
親が私に関心を持たなくても
叔母や叔父が本当の娘の様に接してくれていたから、それで良いと思った。

高校3年の冬
用事があり一時的に実家に帰った。
そうしたら、仕事でいるはずもない母がいた。
ストレスのはけ口にされる前に早く用事を済ませて帰ろうとしたら
母が「叔母ちゃん家まで車で送ってあげる」
と珍しく言った。内心、めっちゃ嫌だったけど
断って色々言われるのも嫌だったので用事を済ませ母と車で叔母の家に向かった。

車の中ではお互い無言だった。

叔母ちゃん家の前に着いたとき母は無言で私に紙袋を手渡した。
私は何も言わずにそれを受け取り、車から降りると
母は帰っていった。

叔母ちゃん家で紙袋の中身を見ると
お弁当が入っていた。
お弁当の中身はカツ弁当だった。

明日、第一志望の大学の受験
母は忙しい中お弁当を作ってくれていた。

久々に食べた母のお弁当は相変わらず美味しかった


後から聞いた話だが
母は毎日のように叔母にメールをして私の様子を聞いていたらしい。

あのときは言えなかったけど
本当にありがとう。

お母さんのカツ弁の味は一生忘れません。
172:2009/06/05(金) 02:24:11 ID:
涙が止まらない。

自分のこと・・・
チラ裏だけど書かせてください。

去年の年明け、高齢ながら初めての子供を産んだ。
間もなく、子育てに追われる中で病気が見つかり、
夏、手術を受けた。
摘出された腫瘍は病理検査の結果、悪性だった。
まさか自分がガンだなんて、信じられなかった。
今のところ再発も転移も無いし
余命宣告されたわけでもないけど
正直「あと何年生きられるだろう?」って、
目の前にいる1歳の子供が何歳になるまで
見ていることができるのだろう?って
頭をよぎることはしょっちゅう。
そんな自分には酷なくらい泣ける話がたくさんあって
ぐちゃぐちゃ泣きながら思った。
もっと毎日を大事に、家族と過ごす時間の有難さを
忘れないように日々を過ごそうって。
当たり前の事だけど出来てないかもなぁ・・・って。

イタズラ盛りの子供を怒鳴ったり
時には手をペチンと叩いてしまったり・・・
まだ1歳じゃ叩かれたって理解できるわけじゃないのに。
そんな日常を思い返して
もっとたくさん笑顔で向き合おうって心から思った。
そして、もっと前向きに強く生きようって、
なんだかモヤモヤが晴れたような気持ち。

今日、このスレを覗いて良かった。
明日は目が腫れるなぁ・・・
177:2009/06/23(火) 09:36:24 ID:
ガン治療中の母から来たメール
話じゃないけど
副作用と戦いつつ上京した娘を心配してくれる母です

父の日に父(ツンデレ)にメールしたけどお父さん見たかな?て送った返事です

絵文字もかわいかったからそのままコピペさせて下さい


>返事遅くなってごめんね!今週は副作用が強く出て、今日仕事休んじゃった!でも、今良くなっちゃったよさぼりになってしまった
お父さんはちゃんとメール見たようですよ相変わらず素直じゃないけど、喜んでいたよ!まったくねー早く夏休みになればいいのね。
東京暑いから体調に気をつけてね。また、連絡くださいよ!はーちゃんを大好きなお母さんより

泣いた
絶対田舎に就職したい
180:2009/07/01(水) 11:12:14 ID:
海外の短編ものだけど・・

母が認知症になった。
施設には入れずに、自宅で介護を続けてきた。
施設の見学には行ったが、施設のことが詳しく分かれば分かるほど、
母をそこに入れることが不憫に思えた。

3年後。懸命な介護にもかかわらず、母の認知症は進んだ。
その頃には私も介護に疲れ、少しのことでイラつくようになっていた。

ある日、家の庭に野良猫がやってきた。
母は猫を指差し、「あれは何だい?」と訪ねてきた。
私は「あれは猫だよ。」と、少し冷たく答えた。
母は1分もしないうちに私に訪ねた。「あれは何だい?」
「母さん。さっき言ったろ?あれは猫だよ。」私は少しイライラしていた。
母はまたすぐに言った。「ねぇ、あれは何?」
私は感情にまかせて母を怒鳴った。「母さん!何度も言ってるだろ!あれは猫だよ!!分からないのかよ!!」
母は恐れるような眼で私を見つめ、それからは黙っていた。

それからすぐに、私は母を施設に入れることにした。

母の荷物をまとめるために部屋を整理していると、古いノートが何冊も出てきた。
パラパラとめくって中身を見ると、それは母の日記で、
私を産んでから数年間、毎日のように書かれたものであった。
私はハッとした。それを読んでも母を施設に入れる気持ちは変わらないと思ったが、
なんだか申し訳ない気持ちになって、なんとなく読み始めていた。

内容はありふれたもので、『私が初めて〇〇をした。』というようなことがほとんどであった。
私は大した感動をすることもなく1冊目を読み終えると、次に一番新しい日記を手に取り、読み始めた。

6月3日
もうすぐ4歳になる息子と公園に行くと、1羽のハクセキレイが目の前に飛んできた。
息子は「あれは何て言う鳥?」と、私に何回も何回も訊いてきた。
私はその度に「あれはセキレイって言うんだよ。」と、言って息子を抱きしめた。
私をこんなに穏やかにしてくれるなんて。この子が生まれてきてくれてよかった。
ありがとう。

読み終わった私の目には涙があふれ、
母のもとに駆け寄り、やさしく抱きしめながら泣きじゃくった。
母はそんな私をただやさしく撫でていた。
198:2009/11/15(日) 00:27:51 ID:
母子家庭だった我が家はとても貧乏だった。
お金のかかるレジャーなんぞ勿論行けなかった。
そんな我が家の楽しみは、夏に行われる花火大会鑑賞。
母の手作り弁当を食べながら綺麗な花火を見てる時は至福の時間だった。
でも中学生になってからは、友達と行く事を選び、母とは全く行かなくなってしまい、母と外出する事が全くなくなってしまった。
そんな自分も無事に高校を卒業し、就職も決まり、少しは生活も楽になるなって明るい未来を想像してた。
初任給で何をプレゼントするか迷ったけど、浴衣と財布を買った。
その心は、一緒に花火を見に行きたかったのと、母にお小遣いをあげて自分のためのお金を持って欲しかったから。
だけど、今年の5月、心臓の血管にヒビが入り入院してしまった。
入院中は「花火大会が始まるまでには退院するからね」って言ってたのに。
入院して10日程たった頃、血管が破裂し、あっけなく逝ってしまった。
看護婦から「花火大会に行くのを本当に楽しみにされてたんですよ」って言われた。
そして、「いつも財布を握って眠ってたんですよ」って言われた。財布の中身を見ると、汚い薄汚れた「肩たたき券」「お掃除券」「お買い物券」が入っていた。
俺はそれを見た途端、涙腺が壊れたって位泣いた。誰の肩を叩けばいいんですか?誰のために掃除すればいいんですか?誰の代わりに買い物行けばいいんですか…
鍵っ子で、全くと言っていいほどおもちゃもなくて「寂しい思いをさせてゴメンね」って母からよく言われたけど、寂しいなんて一度も思いませんでした。
だけど、母ちゃんがいない今はとても寂しいです。女手ひとつで育ててくれてさぞかし大変だったでしょう。
一度もありがとうの言葉を言えなかったのが心残りです。
232:2010/02/11(木) 20:38:11 ID:
下手な文章ですが書かせてください

私が19歳のとき、母が末期ガンと診断されました
もう長くはないと

入院中、もうすぐ成人式だった私に
「振袖そろそろ見に行かないと」
「お母さん一緒に行けなくてごめんね」
「△△さん(母の親友)と一緒に見に行っておいで?」
など、すごく振袖を気にしていました
私は正直こんな状況なので成人式なんてどうでもよく、行く気もありませんでした

そしてどんどん病状が悪化していくある日、病院から帰ろうとする私に母は
「○○を産んで幸せだったよ。○○、幸せになってね」
と言った。涙が止まらなかった。

それからしばらくして、親戚が「これを着て病院に行きなさい」と振袖を借りてきてくれました。
美容院で着付け、ヘアセット、メイクをしてもらって病院に行った。

その頃の母は、もうほとんどしゃべれなくて意識も朦朧としていました。
振袖を着た私を見て何度も「可愛い」って言ってくれました
病室の中で撮った家族写真を見たら、母は私の方ばかり見ていました

その夜、なんとなく嫌な予感がした
もう会えない気がした

次の日の朝、家族の見守る中お母さんは逝きました

お母さん会いたいです
いっぱいありがとうって言いたい
まだまだいっしょにいたかった
250:2010/03/24(水) 00:03:59 ID:
どこに吐き出したらいいかわからないのでここに来ましたが完全チラ裏だし、
自分語りなのでスルーしてもらってもいいです。ちょっとスレチかも。
俺にできることって何なんだろう。
かーちゃんが入院した。何か大変な病気らしいがかーちゃんは心配かけまいとして俺に詳しい症状とかを隠すんだ。
ばーちゃんやじーちゃん、父ちゃんはもちろん知ってる。それだけじゃなくて俺が知らないような親戚の人も知ってる。
知らないのは俺と今地元離れてる姉ちゃんくらいだ。
かーちゃんが子供の俺たちに心配かけたくないって思ってるの痛いほどわかる。
だからってのもあるけど、俺自身怖くて誰にも聞けないんだ。かーちゃんの病気のことについて口を開こうと思っただけで涙が出るんだ。
一番つらいのはかーちゃんなのに、情けないけど何にも言えないんだ。
今日手術が終わった。やっぱりばーちゃんたちの話を聞いてると深刻みたいで、かなり時間のかかる手術だった。
終わった後のかーちゃんの顔見ても何も言えなかった。口を開こうとするとやっぱり涙が出そうになるから。
手術前にかーちゃんに「手術が終わったらかーちゃんの携帯から姉ちゃんとかーちゃんの友達に手術終わったってメールしてくれ」って頼まれてたから、
まずかーちゃんの友達にメールを送った。
かーちゃんの友達から「お疲れ様って伝えてね。○○君(俺)、お母さん支えてあげてね。手伝えることがあったら遠慮なく言って」みたいな返事が結構来た。
俺は何の言葉もかけてやれなかったのに何を支えたらいいんだろう?
明日も様子を見に病院に行くけどかーちゃんの顔を見てちゃんと笑えるだろうか。
「お疲れ様」って言えるだろうか。もう今も涙が止まらない。
姉ちゃんには俺の携帯から無事に手術が終わったことを伝えた。姉ちゃんも無事にすんだことを安心していた。
姉ちゃんなんかただでさえ地元離れて一人でいるんだから俺より心配で仕方ないはずだ。
本当は姉ちゃんには電話して伝えようかと思ったけど、姉ちゃんの声聞いても泣きそうだからやめた。
俺は男なのに何て情けないんだろう。
かーちゃんは手術が終わっても大変な治療を続けないといけないらしい。
俺はかーちゃんをどう支えたらいいんだろう。
マザコンと思われるかもしれないが俺はかーちゃんがめっちゃ大事なんだ。
かーちゃんだけじゃない。父ちゃんも姉ちゃんもじーちゃんばーちゃんも家族は皆大好きだ。
俺は何やってもトロくて冴えなくて、今もバイトで先輩に突っかかられる毎日。
でも家族はいつもそんな俺の味方でいてくれるんだ。
だから俺も家族の、かーちゃんの味方でいたい。
かーちゃんが退院しても、基本的な家のこととかは俺がやるつもりだ。
もうすぐ大学始まるから大変だと思うけどそんなのかーちゃんの苦しいのに比べたら何でもない。
今でこそ父ちゃんも帰ってきてくれてるけど、また仕事で遠くに行かなきゃならない。
姉ちゃんも都会の大学で色々忙しいから帰ってこれない。
俺しかかーちゃんのそばにいられない。でも俺は何をしたらいいんだろう。
今までかーちゃんとほぼ二人暮らしみたいな感じで、結構楽しかった。早くかーちゃんに笑って欲しい。
とりあえず明日は、かーちゃんの大好きな東方神起の新曲買って行こうと思う。
長文すいません。
256:2010/05/05(水) 04:36:20 ID:
長くで駄文でスマソ、だけど書かせてください。

俺の実家は自営業に失敗して、借金まみれ。両親は共働きでなんとか4人兄弟を育ててくれた。

そんな両親のお金で俺は卓球の部活動をさせてもらっていたんだが、高校2年生の時、県大会で万引きをして捕まった。

駅の中にある結構大きな店。
漫画を2冊バックに入れて店をでようとしたら、中年男性と若い男性二人に肩をつかまれて呼び止められた。
そのまま事務所に直行。すぐに警察に連絡、警察が来て近くの交番に連れていかれた。

小さい部屋に入れられて色々質問をされた。
警「いつからやってるの?」
俺「・・・今回が初めてです」
警「正直に言いなさい。いつから」
俺「・・・いえ、今回が初めてです。」
2,3回繰り返しても信じてもらえないようだった。
そこから書類に色々書かされた。
名前とか書いていくうちに、
(…このボールペンで胸刺して死のうかな…)
と思うまでに沈んでいた。
4時間。みっちりお叱りと質問を受けた。それのせいでちょっと精神がおかしくなっていたんだと思う。こんなドラマみたいに大事になるとは思ってなかったから。

警「学校の先生がくるまで待ってなさい」
といわれて待っていたんだが、警察との話が終わって落ち着く暇もなく、なぜか一番最初に教頭が現れた。(ちなみに場所が地元じゃないので両親はすぐにはこられなかった)
そのすぐあとに顧問の先生。
さっきと同じ部屋で、俺、教頭、顧問で話をした。
話というか警察としたこととなんら変わりなかった。
教「なんでこんなことした!?両親が悲しむとは思わなかったのか!?」
俺「…すいません…」
ここで俺限界、泣いた。

俺の親、悪いことには厳しい。兄貴がいるんだけど、昔、兄貴が高校の頃、タバコがバレて謹慎になったときめちゃくちゃ母親が怒ってた。
「信じられん!」
とか怒鳴り散らしてた。
だから俺、親に見捨てられるんじゃないかと思った。
そんなことを考えてしまって泣いた。

そこで教頭の追い打ち
教「泣いても許されないんだぞ!わかってるのか!」
俺「すいません・・・すいません」
この間顧問はなにもいわず立っていた。
257:2010/05/05(水) 04:38:13 ID:
>>256続き

時間は21時前、外は暗くなっていた。
一通り教頭のお叱りを受けて、とりあえずその日はホテルに帰ることになった。
教頭はいつの間にかいなくなってた。
帰路で顧問の先生は、何もいわずとなりで歩いていたんだが、少し時間がたって、そっと俺に携帯を差し出して
顧「親に連絡しなさい。警察から連絡受けて、待ってるだろうから」
と言われた。
正直、親に電話をするのはすごく怖かった。
どんな罵声を浴びるんだろうとか、これからずっと無視されるんじゃないだろうかとか不安でいっぱいだった。
顧「んじゃ、俺は向こうで待ってるから」
顧問はそう言って少し距離をおいたところで待ってくれてた。
もう電話するしかないと思って、震える手で番号を押した。
呼び出し音が鳴ってすぐに母親が出た…。

母「はい、〇〇です。」
俺「……」
最初声が出なかった。何秒かたって、
俺「…も、もしもし」
多分声は震えてた
母「俺?俺なの?」
俺「うん…」
すぐに謝ろうと思ったが、母の方が早く口を開いた。


母「…そう、もう晩御飯は食べた?」



驚いた。怒鳴り散らすことなく、むしろ今まで聞いたことないような優しい声だった。
こんなことした俺なのに、母は心配してくれてた。涙が止まらなかった。
俺「………ごめんなさい…」
人生で初めて泣き崩れた。一通りが多い道で電話しながら泣き崩れた。
母「うん。それはもういいから、今日はちゃんとご飯食べてお風呂入ってゆっくり寝なさい」
と言われ、また一言謝って電話を切った。

もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 再び

 

 - Diamonds and Pearls, 失われた時を求めて , , , , , , , ,