【概要】
- リスペクト精神は相手を敬ってプレーすること。
- その精神は自分と対象を等価に位置づけるのかもしれない。
- 自分の存在をどこに位置づけるかって大切だと思う。
【参考】
【内容】
リスペクト精神とは、関わるすべてに敬意を払うこと
リスペクト精神を端的に表した言葉がこれ。
リスペクト
敬意を表する
対戦相手がいないと試合が成立しない
対戦してくれる相手チームに敬意を表する
帯同審判が居ないと大会に参加できない
審判をやってくれるスタッフや家族に敬意を表する
練習会場が予約できないと練習が中止になりサッカーができない
会場を予約してくれる人や会場を貸してくれる施設の人や管理人さんに敬意を表する
サッカーが上手くなる
自分の努力が一番だけど
上手くできる身体に産んでくれたご両親に敬意を表する
応援してくれる周りの人々に敬意を表するからこそ一生懸命努力できる
だからこそサッカーが上手くなる
自分に関わるすべての事物に感謝の心を持つこと。
そういう精神が『ひたむきさ』の源泉になって、自分の成長に磨きをかけるのかもね。
それは真心に近い精神なのかな。
光悦「刀を万象と見立て、天地と見立てた」
バガボンドの本阿弥光悦が言った言葉とリスペクト精神には何か繋がりがあるんじゃないかって思った。
何かに敬意を払うことは光悦の感覚ともしかしたら近いのかもしれないね。
本阿弥光悦が考える、刀に対する美しさとは…!
光悦は類まれな力を持った研師。
そのスゴさは徳川家康からも依頼を受けるレベル。
光悦は武蔵の刀を見て、まず「刀が疲れ果ててる」と言った。
研師として、刀を万象と見立てる光悦にとって刀は『もの』じゃないのかもしれない。
だが光悦は研師として長年研鑽を重ねる中で、自分の生業に対して様々な念を感じていた。
刀を用いて人を殺める武芸者は、世間にとっては迷惑な存在だ。
だが、研師は『より殺傷能力の高い』研磨した刀を武芸者に渡す。
それは死の商人に近いことであり、自分こそ傍迷惑な存在だと言う。
「どこまで行っても刀は刀であり、人を斬る為だけにある刃物だ」
「刃物として与えられた命を全うしてこそ美しい、そこを忘れるとおかしなことになる」
「刀に囲まれていたからこそ刀が見えなくなったのか、美という意識にとらわれたのか」
↑月日を経て進む業に対して、光悦は次第に刀を研ぐことに満足できなくなってしまった。
これが研師として一線を退いた理由だと言う。
「刀を究極に美しく在らしめるためには刀であってはならない気がした」
「刀が美しいならば、人を斬ってよいと思っている」
↑そして光悦は、自分を俯瞰して見た上でこういう結論を述べている。
自分に関わる『もの』をどこに位置づけるのか
光悦の刀に対する美しさって言葉にできない。
刀は斬る為の『もの』だけど、美しい刀は『もの』であってはならない。
そして『もの』でない刀であれば、人を殺めてもよい。
何が言いたいんだろう。
でも読んでいると、自分を表現するために刀を振るう人と刀が自分を表現する人の違いかなって思った。
「おれは強いぞ!」な人は刀を『もの』として扱って、自分と刀に序列を作る。
「これが俺だ!」な人にとって刀は『もの』じゃなく、自分と刀に上下関係は無い。
そう考えると、『もの』である刀には使用者と道具という関係が生まれている。
だから多分、光悦はそういうことを言ってるんじゃないかなって思った。
リスペクト精神は『関わるすべてに敬意』を表すること。
敬意を払うってことは、敬うこと。
認めるというか、感謝するというか、その対象を自分と対等な位置関係に置くってこと。
『それは相手も自分も同じく、お世話になっている』から『お互い様』って関係。
つまり、リスペクト精神において、自分と対象に対して上下関係は無いのかもしれない。
そう考えると、光悦の刀に対する敬意はリスペクト精神に通ずるんじゃないかなって思う。