【概要】
- 現代社会は勝ち組と負け組という言葉が否応無く染み込んでくる。
- だから、心の空白や孤独を埋める作品が心の琴線に触れたりする。
- ロマンチストとリアリストの対比を考えてみた。
【参考】
なぜか心に残る攻殻機動隊 S.A.C. 1nd GIG 映画監督の夢の話
【内容】
人々の心の補完と救済を夢見る監督
監督「どうだった?」
草薙「確かにいい映画とも言えないくもないわね。
でもどんな娯楽も基本的には一過性の物だし、またそうあるべきだわ。
始まりも終わりもなく、ただ観客を魅了したまま手放そうとしない映画なんて、それがどんなに素晴らしく思えたとしても害にしかならない」
監督「ほお、手厳しいのう。我々観客には戻るべき現実があるとでも言いたいのかね?」
草薙「そうよ」
監督「ここの観客の中には、現実に戻った途端に不幸が待ち受けてる者もいる。
そういう連中の夢を取り上げあんたは責任を負えるのかね?」
草薙「負えないわ。でも夢は現実の中で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」
監督「リアリストだな」
草薙「現実逃避をロマンチストと呼ぶならね」
監督「いつかあんたの信じる現実が造れたら呼んでくれ。その時ワシらはこの映画館を出て行こう」
↑攻殻機動隊12話『タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM』にて展開された会話シーン。
この映画監督は、自分の最高傑作とも言える映画を外部デバイスに保存していた。
その映画は、万人が『素晴らしい』と驚嘆する出来栄えで、永遠にデバイスに閉じ籠もる人がいるくらいのレベル。
彼は訪問者を自分の才能で惹き付け、魅了して手放さない。
これについて、『現実で苦しむ人への慰め』だから肯定されるべき『救済』と考えているようだ。
だけど、草薙素子は「造られた救済なんて要らない」と言う。
ロマンチストな監督とリアリストな草薙素子の会話にはどんな意図があるんだろうね。
映画監督の夢と草薙素子の志、どちらを支持しますか?
監督「人は万能じゃない。逃げるべき場所も必要だ」
素子「だからこそ、万能に近づく努力をするべきじゃないのか?」
↑監督はロマンチストで、少佐はリアリストな考えと対照的なのが分かる。
彼はどんな内容の映画を作ったんだろうね。
けど、当の草薙素子も魅せられて涙を零すほどの作品だった模様。
彼の言葉からは何というか、『人は完全じゃない!』って意図が伝わってくる。
現実を謳歌する者もいれば、挫折する人もいる。
それを踏まえて、「全ての人間が強いわけではない!」って感じ。
であるならば、監督は映画を通じて『弱い心の補完』を目的にしていたんじゃないかな。
だから彼の言う夢ってのは、多分、『理想と願望』を表してるんだと思う。
自分のゴーストと作品を外部デバイスに込めて訪問者にそれを魅せた。
その結果、魅了され虜になり留まる人間が後を絶たなくなっていった。
だけど草薙素子は違った。
少佐は「逃げ道を造る暇があったら現実と戦え!」と提言する。
そこからは「誰かの夢と同化して生きることは個性の喪失だ!」というニュアンスが伝わってくる。
素子は娯楽を一過性のものと考えている。
つまり、現実逃避は一時的ならば許容できるが、永続はダメだってこと。
でも監督は最終的に現実主義者の素子に何かを期待したようだ。
会話から読み取るに、監督は昔人間に絶望した経験があるんじゃないかな。
「人間は自分が思うように生きられない存在だ」みたいな。
『現実と運命は変えられない』から、永続的なロマンを肯定したのかも。
だから監督は少佐に一縷の望みを託したのかもしれない。
「魅せられた人々に、現実に抗うことの偉大さを示してくれ!」みたいな。
そう考えると、監督はリアリストを受容しながらもロマンチストに傾倒したのかなって思う。
映画監督の弱さが分かると夢に共感する
お杉「この世に強い人なんておらん。強くあろうとする人、おるのはそれだけじゃ」
本位田又八「Orz」(´;ω;`)ブワッ
お杉「弱い者は己を弱いとは言わん。おぬしはもう弱いものではない。強くあろうとする者、もう一歩めを踏み出したよ」
↑映画監督は映画にすべてを込めて引き篭もった。
それは『強くあろうとする者』の姿じゃあなかったのかもしれないね。
でも少佐との出会いが一歩目を後押ししたとも考えられる。
個人的に映画監督の葛藤がとても好きだなぁ。
物凄く人間臭い気がする。
お杉「ただまっすぐに一本の道を歩むのは美しい。じゃが普通はそうはいかぬもの」
お杉「迷い、間違い、回り道もする。それでええ。振り返って御覧。あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、迷いに迷ったそなたの道は、きっと誰よりも広がっとる」
又八「orz」(´Д⊂ヽウェェェン
↑なんか映画監督が美作に引き篭もったままの又八って思うと涙が…
彼の素晴らしい映画の背景にはきっと物凄い苦労や絶望があったんだと思う。
だからこそ共感する人が多く、現実逃避を肯定したのかもしれない。
近頃は極端な思想が増えてる気がする。
現実逃避を否定するなら一滴の受容を許さない。
肯定するなら骨の髄まで永遠に味わい続けるみたいな。
中庸って感覚が麻痺してるのかもしれない。
『ブレる』って言葉が否定のニュアンスを強く持ったためだと思う。
ララァ「人は変わっていくのね…」
アムロ「人はいつか、時間さえも支配できるさ…」
↑ララァが言うには、時間と共に人は変わっていく(ブレていく)。
けどそれは決して否定じゃあない。
多分ニュータイプの言う『変わる』ってのは、積み重なるって意味だと思う。
古いものを捨てるのではなく、下地にしていくって感じ。
極端なチェンジは潔くカッコよく見える。
でも自分の居場所、存在価値を見付けるには度量が必要だ。
基礎的な土台があってブレる分には大いに構わないんじゃないかな。
なんていうか、むしろ変わらないと腐っていくと思った。
少佐の言うことが正しいんだろうけど、ストレス社会においては映画監督の夢が欲しくなりそう。