【概要】
- 語り得ないものについては沈黙せざるを得ない。
- 何となく、自意識過剰って自分を自分たらしめる大切な要素かもって思った。
- ここの議論を見る限り、今後ニュータイプは現れなさそうだね。
ディズニーランドをここまで美しく脳内変換するクリエイターって何者ですの!?
【内容】
これまでの思索を通じて導き出した真理
1: :2015/02/18(水) 17:52:51.23 ID:
「私は存在する」
は
「太郎が存在する」「次郎が存在する」「花子が存在する」
といった、すべてのことを含んでいる。
ということは、世界の中で
「私だけが唯一特別に存在する」という発想は幻想であり、「なぜ私は他の誰でもなくこの私なのか」
という問いは無意味である。
私自身のことを「この」という時、「私」とは太郎であろうと次郎であろうとはな子であろうと、
私が「太郎である」こと「次郎である」こと「花子である」ことに特別な理由など存在しない。
私が私自身のことを「この」という時、太郎でもあり次郎でもあり花子でもありうる
「私」しか意味を理解しえないからだ。
ゆえに、「私は存在する」とは、「私は考える」ということ以上の
意味を持ちえない。
は
「太郎が存在する」「次郎が存在する」「花子が存在する」
といった、すべてのことを含んでいる。
ということは、世界の中で
「私だけが唯一特別に存在する」という発想は幻想であり、「なぜ私は他の誰でもなくこの私なのか」
という問いは無意味である。
私自身のことを「この」という時、「私」とは太郎であろうと次郎であろうとはな子であろうと、
私が「太郎である」こと「次郎である」こと「花子である」ことに特別な理由など存在しない。
私が私自身のことを「この」という時、太郎でもあり次郎でもあり花子でもありうる
「私」しか意味を理解しえないからだ。
ゆえに、「私は存在する」とは、「私は考える」ということ以上の
意味を持ちえない。
6: :2015/02/18(水) 19:45:58.49 ID:
>>1だけがわかってなくて周りは全員しっててだけど>>1は哲学定文を連投するみたいな情況なの???
10: :2015/02/18(水) 21:51:17.77 ID:
>>1の言う世界の意味ってのは
ハイッデッガー的な世界、内面世界のことを言っているのか
それとも宇宙全体における世界を言っているのか
前者と後者では意味が変わってきてしまう
ハイッデッガー的な世界、内面世界のことを言っているのか
それとも宇宙全体における世界を言っているのか
前者と後者では意味が変わってきてしまう
11: :2015/02/19(木) 17:28:01.45 ID:
>>9
見方を変えれば、我々を前提としているということは、
「我々」という独我論を前提としていることになる。
>>10
この世界を観念論的主知主義的、あるいは、唯物論的客体主義的に捉えた時、
事実に先立つ本質的な意味について言っている。
だから、「世界」とはハイデッガーのいうような世界のことも言ってるし、
宇宙全体における世界のことについても言ってる。
そもそも世界とは「私」の認識を離れて存在しないし、たとえ認識されている世界が
それぞれ多様な、しかし恣意性のあるものだからと言って、世界は「私」の認識に
従属的であることに変わりはない。
もちろんそのことが「世の中の真理である」ともいうつもりはない。
見方を変えれば、我々を前提としているということは、
「我々」という独我論を前提としていることになる。
>>10
この世界を観念論的主知主義的、あるいは、唯物論的客体主義的に捉えた時、
事実に先立つ本質的な意味について言っている。
だから、「世界」とはハイデッガーのいうような世界のことも言ってるし、
宇宙全体における世界のことについても言ってる。
そもそも世界とは「私」の認識を離れて存在しないし、たとえ認識されている世界が
それぞれ多様な、しかし恣意性のあるものだからと言って、世界は「私」の認識に
従属的であることに変わりはない。
もちろんそのことが「世の中の真理である」ともいうつもりはない。
17: :2015/02/19(木) 18:54:26.83 ID:
>>11
現象学には疎いのだが、素朴実在論的立場をとるのだろうか
このスレではコテをつけないがあしからず、
現象学には疎いのだが、素朴実在論的立場をとるのだろうか
このスレではコテをつけないがあしからず、
20: :2015/02/20(金) 19:12:45.52 ID:
>>17
素朴実在論というより、素朴観念論かな。
>>19
わかってないな。
「痛み」や「眩しさ」は、そもそも存在なんてしていない。
「存在している」と言われるとき、それは「私の痛み」や「私の眩しさ」として
思考されるときであって、「私」とセットにならない痛みやまぶしさは
まさにお前が言うとおり「辺り一面が白い」ことと何ら変わりはない。
素朴実在論というより、素朴観念論かな。
>>19
わかってないな。
「痛み」や「眩しさ」は、そもそも存在なんてしていない。
「存在している」と言われるとき、それは「私の痛み」や「私の眩しさ」として
思考されるときであって、「私」とセットにならない痛みやまぶしさは
まさにお前が言うとおり「辺り一面が白い」ことと何ら変わりはない。
29: :2015/02/20(金) 20:13:38.11 ID:
>>20
例えば、林檎が赤い、と思っているのは我々の認識によるもので
本質的な林檎の表面に色があるわけではなく、ある波長の可視光を
反射するような表面しかないわけで、現象学で語り得る世界が、
物理的世界となるわけではない。
よって>>10に対しての>>11のレスで、前者と後者を含めて、「私」の認識に
従属的だとは言えないと思うのだが
>>27
私と感覚は常に不可分であると思う
存在しているという感覚と(自己同一的感覚)、存在している根拠は異なっている
想念する私の視点は、これらを混同してしまったもので、本来感覚ではないと思われる
例えば、林檎が赤い、と思っているのは我々の認識によるもので
本質的な林檎の表面に色があるわけではなく、ある波長の可視光を
反射するような表面しかないわけで、現象学で語り得る世界が、
物理的世界となるわけではない。
よって>>10に対しての>>11のレスで、前者と後者を含めて、「私」の認識に
従属的だとは言えないと思うのだが
>>27
私と感覚は常に不可分であると思う
存在しているという感覚と(自己同一的感覚)、存在している根拠は異なっている
想念する私の視点は、これらを混同してしまったもので、本来感覚ではないと思われる
25: :2015/02/20(金) 20:05:21.67 ID:
例えば、林檎が赤い、と思っているのは我々の認識によるもので
本質的な林檎の表面に色があるわけではなく、ある波長の可視光を
反射するような表面しかないわけで、現象学で語り得る世界が、
物理的世界となるわけではない。
よって>>10に対しての>>11のレスで、前者と後者を含めて、「私」の認識に
従属的だとは言えないと思うのだが
本質的な林檎の表面に色があるわけではなく、ある波長の可視光を
反射するような表面しかないわけで、現象学で語り得る世界が、
物理的世界となるわけではない。
よって>>10に対しての>>11のレスで、前者と後者を含めて、「私」の認識に
従属的だとは言えないと思うのだが
27: :2015/02/20(金) 20:09:15.31 ID:
よって>>10に対しての>>11のレスで
どっちも知らんw
どっちも知らんw
78: :2015/03/14(土) 02:43:41.51 ID:
誰か>>1を分かりやすく説明してくれ
はっきり言って、改行とか結論とか難しい言い方とか参考元書くとかなんとかならなかったのか
はっきり言って、改行とか結論とか難しい言い方とか参考元書くとかなんとかならなかったのか
80: :2015/03/17(火) 18:27:48.24 ID:
>>78
適当に思い付きだけで書いた文章だから、
そんな深く考えなくてもいいよ。
ただ自分の知ってること、知らないことを区別するために立てただけのスレだから。
適当に思い付きだけで書いた文章だから、
そんな深く考えなくてもいいよ。
ただ自分の知ってること、知らないことを区別するために立てただけのスレだから。
79: :2015/03/14(土) 03:20:42.02 ID:
>>1
>私が「太郎である」こと「次郎である」こと「花子である」ことに特別な理由など存在しない。
「私」という個体に対して太郎とか花子とかラベルを貼っているだけだと言いたいのかな?
>私が私自身のことを「この」という時、太郎でもあり次郎でもあり花子でもありうる
>「私」しか意味を理解しえないからだ。
ラベルを貼ることはただの行為であり、いかにラベルを貼るかは究極的には自分しかわからないということかな?
>私が「太郎である」こと「次郎である」こと「花子である」ことに特別な理由など存在しない。
「私」という個体に対して太郎とか花子とかラベルを貼っているだけだと言いたいのかな?
>私が私自身のことを「この」という時、太郎でもあり次郎でもあり花子でもありうる
>「私」しか意味を理解しえないからだ。
ラベルを貼ることはただの行為であり、いかにラベルを貼るかは究極的には自分しかわからないということかな?
2: :2015/02/18(水) 18:10:30.58 ID:
戯論寂滅!!
4: :2015/02/18(水) 18:52:27.35 ID:
あれが○○したから ~しました式の思考法が大多数を占めるあれの行動指針
5: :2015/02/18(水) 19:07:30.31 ID:
やっぱり共同体の合意取り付けみたいな流でドンドンうごいていっちゃうワシ考える故に流れ藻みたいなことになってるノ???
7: :2015/02/18(水) 20:17:45.43 ID:
>>1のことはわかっているようでわかっていないやつが多い。
たいていの奴が、あえて書き込まないことによって、暗黙知を維持している。
ここの掲示板には知ったか君が多いということだな。
たいていの奴が、あえて書き込まないことによって、暗黙知を維持している。
ここの掲示板には知ったか君が多いということだな。
8: :2015/02/18(水) 20:19:50.22 ID:
もう一度原点に戻って考えてみてはいかがだろうか。「独我論」について。
9: :2015/02/18(水) 21:33:21.88 ID:
>もう一度原点に戻って考えてみてはいかがだろうか。
原点に立ち戻ろうという提案自体が、独我ではなくて、我々を前提としているんだが?
原点に立ち戻ろうという提案自体が、独我ではなくて、我々を前提としているんだが?
12: :2015/02/19(木) 17:32:31.68 ID:
「世の中の真理である」ともいうつもりはない×
もちろん以降の文章はなかったことに
もちろん以降の文章はなかったことに
13: :2015/02/19(木) 17:55:39.26 ID:
独我論的であるということは、世界は私が考える限りにおいて存在するということであり、
私が「そのように」考える限りにおいて存在するということではない。
というのも「そのように」考えることができない存在もあるからだ。
例えば、統合失調症的な思考がそれで、我々自身もそういったありとあらゆる
現象がありえないということを知っている。
私が「そのように」考える限りにおいて存在するということではない。
というのも「そのように」考えることができない存在もあるからだ。
例えば、統合失調症的な思考がそれで、我々自身もそういったありとあらゆる
現象がありえないということを知っている。
14: :2015/02/19(木) 18:05:44.25 ID:
ここで現象と存在の概念を区別しておこう。
現象とは私に起きうるすべての体験のことである。
現象は対象化されて、「常識」という形として認識される。
存在とは、対象化された現象が、具体的に、充実度を持って認識されることであり、
「現実世界」とは、この現象と存在の間を行き来するプロセスの中で成り立っている。
ハイデガーはこれを「存在了解」と言って、表現した。
メルロポンティはもっと厳密に「臨在」(世界に臨んであること)として表現している。
現象とは私に起きうるすべての体験のことである。
現象は対象化されて、「常識」という形として認識される。
存在とは、対象化された現象が、具体的に、充実度を持って認識されることであり、
「現実世界」とは、この現象と存在の間を行き来するプロセスの中で成り立っている。
ハイデガーはこれを「存在了解」と言って、表現した。
メルロポンティはもっと厳密に「臨在」(世界に臨んであること)として表現している。
15: :2015/02/19(木) 18:24:22.61 ID:
さて、問題はこの「我々」とはなんなのか?ということだ。
「私が認識している」ことと「私たちが認識している」こととの違いとはなんなのだろうか?
ハイデガーもメルロポンティも、というか現象学の限界とは、自己によって認識した事柄が
存在論的に正当であるということを証明できないというところにある。
なぜなら「私がそう考えるから」ということによってしか、他に私の現前世界を裏付ける根拠が存在しないからだ。
どんなに頑張って厳密性というものを徹底したとしても、
形而上学的な性格というものを取り除くことはできない。
構造主義が批判したのも、まさにこういったところなのだろう。
そういった文脈から考えると、フッサールの「間主観性」という概念は、その既定に「日常世界」というものを
前提としているわけだが、現代的には、この「日常世界」という概念は、妥協的な
言い回しとしか思えない。
やはり、人間を抽象的に語るのには限界があるように思われる。
ウィトゲンシュタインも実証主義的な立場から同じように、規則は従う限りにおいて
私に有意味であり、規則を改めて問い直すことには意味がないと言っている。
「私が認識している」ことと「私たちが認識している」こととの違いとはなんなのだろうか?
ハイデガーもメルロポンティも、というか現象学の限界とは、自己によって認識した事柄が
存在論的に正当であるということを証明できないというところにある。
なぜなら「私がそう考えるから」ということによってしか、他に私の現前世界を裏付ける根拠が存在しないからだ。
どんなに頑張って厳密性というものを徹底したとしても、
形而上学的な性格というものを取り除くことはできない。
構造主義が批判したのも、まさにこういったところなのだろう。
そういった文脈から考えると、フッサールの「間主観性」という概念は、その既定に「日常世界」というものを
前提としているわけだが、現代的には、この「日常世界」という概念は、妥協的な
言い回しとしか思えない。
やはり、人間を抽象的に語るのには限界があるように思われる。
ウィトゲンシュタインも実証主義的な立場から同じように、規則は従う限りにおいて
私に有意味であり、規則を改めて問い直すことには意味がないと言っている。
16: :2015/02/19(木) 18:29:56.93 ID:
>>15の文章は忘れてくれ。
結論をあまり急ぎすぎてはいけない。
結論をあまり急ぎすぎてはいけない。
28: :2015/02/20(金) 20:11:08.86 ID:
>>15
>現象学の限界とは、自己によって認識した事柄が存在論的に
正当であるということを証明できないと言うところにある。
>上記の存在論的に証明が出来ないと言うことは、フッサ-ルの「間主観性」概念を
基底している「日常世界(=主客未分化領野)」という概念が、主観で構成された意識領野を
超克していないと言うことでしょうか。
>現象学の限界とは、自己によって認識した事柄が存在論的に
正当であるということを証明できないと言うところにある。
>上記の存在論的に証明が出来ないと言うことは、フッサ-ルの「間主観性」概念を
基底している「日常世界(=主客未分化領野)」という概念が、主観で構成された意識領野を
超克していないと言うことでしょうか。
18: :2015/02/19(木) 21:17:21.17 ID:
読みが甘い。
19: :2015/02/19(木) 23:43:04.78 ID:
例えば、「痛み」や「眩しさ」は、まず、「私の痛み」や「私の眩しさ」として
あるわけではない。辺り一面、雪に覆われた風景が、まず、「私に感じられる白さ」
としてあるわけではなく、ただ単に「辺り一面が白い」のと同じことである。
その「痛み」や「眩しさ」を他人が感じていないことを知ることより、それが
「私の痛み」や「私の眩しさ」になる。そして、そのことを知るのは、その
ことが、他人の感じる「痛み」や「眩しさ」を自分が感じていないことと互換
であると了解することによってである。
あるわけではない。辺り一面、雪に覆われた風景が、まず、「私に感じられる白さ」
としてあるわけではなく、ただ単に「辺り一面が白い」のと同じことである。
その「痛み」や「眩しさ」を他人が感じていないことを知ることより、それが
「私の痛み」や「私の眩しさ」になる。そして、そのことを知るのは、その
ことが、他人の感じる「痛み」や「眩しさ」を自分が感じていないことと互換
であると了解することによってである。
21: :2015/02/20(金) 19:16:13.09 ID:
お前の論法だと「痛みが私を感じる」ということになってしまう。
しかしそんなことはありえない。
しかしそんなことはありえない。
22: :2015/02/20(金) 19:18:43.81 ID:
>>1だが以降「ひろ」と名乗る
23: :2015/02/20(金) 19:50:56.58 ID:
現象学カテゴリーすらまったく理解していない人間が偉そうだな
24: :2015/02/20(金) 20:00:33.06 ID:
何かが存在しているとされる時点で、すでに世界と、そこにいる自己に分かれている。
だからこそ「存在」についての問いを発することになる。現象学の問題意識そのもの
が理解できていないんだよ。
だからこそ「存在」についての問いを発することになる。現象学の問題意識そのもの
が理解できていないんだよ。
26: :2015/02/20(金) 20:07:37.04 ID:
辺り一面、雪に覆われた風景は、ただ単に「辺り一面が白い」んだよ。
まったく同様に、痛いときには、ただ単に「痛い」のであって、
「私が痛い」とか、「私に痛みがある」とかではない。
まったく同様に、痛いときには、ただ単に「痛い」のであって、
「私が痛い」とか、「私に痛みがある」とかではない。
36: :2015/02/23(月) 01:00:20.21 ID:
>>28
>基底している「日常世界(=主客未分化領野)」という概念が、主観で構成された意識領野を
超克していないと言うことでしょうか。
「超克している」というだけでは、既存のシステムと差異をなしていることに
しかならないということです。
>>24
現象学的な問題意識があるかどうかはここでは問題ではない。
なぜなら現象学的な問題意識そのものが問われているからだ。
>>25
「我々の認識」とはすでに「私の認識」を前提とするもので、
「林檎は赤い色」であることを前提とするものだ。
この前提つまり、「太郎が林檎を赤色と認識する」「次郎が林檎を赤色と認識する」
「花子が林檎を赤色と認識する」という「我々の認識」とは、
「私が林檎を赤色と認識する」「私が林檎を赤色と認識する」「私が林檎を赤色と認識する」という私の反復的な認識によって成り立つ、前提としなければならない認識であるので、「私の認識」に従属的だ。
>>26
「雪が白い」ということと、「身体が痛い」ということは同じように成立はしない。
前者は主語がなくとも、「白い」は意味を成すが、後者は主語がなければ「痛い」という情報は意味を成さない。
「私」とは「痛い」という意味を成立させる主語の形式であり、「身体」に「内」があることの前提条件である。
>基底している「日常世界(=主客未分化領野)」という概念が、主観で構成された意識領野を
超克していないと言うことでしょうか。
「超克している」というだけでは、既存のシステムと差異をなしていることに
しかならないということです。
>>24
現象学的な問題意識があるかどうかはここでは問題ではない。
なぜなら現象学的な問題意識そのものが問われているからだ。
>>25
「我々の認識」とはすでに「私の認識」を前提とするもので、
「林檎は赤い色」であることを前提とするものだ。
この前提つまり、「太郎が林檎を赤色と認識する」「次郎が林檎を赤色と認識する」
「花子が林檎を赤色と認識する」という「我々の認識」とは、
「私が林檎を赤色と認識する」「私が林檎を赤色と認識する」「私が林檎を赤色と認識する」という私の反復的な認識によって成り立つ、前提としなければならない認識であるので、「私の認識」に従属的だ。
>>26
「雪が白い」ということと、「身体が痛い」ということは同じように成立はしない。
前者は主語がなくとも、「白い」は意味を成すが、後者は主語がなければ「痛い」という情報は意味を成さない。
「私」とは「痛い」という意味を成立させる主語の形式であり、「身体」に「内」があることの前提条件である。
44: :2015/02/24(火) 14:57:40.39 ID:
>>25
「我々の認識」とは、結局「私の知覚のすべて」であり、「私の認識」に従属することに変わりはない。
「リンゴが赤い」のは、「リンゴが赤く見える」ということと「他の人も赤く見える」ということとが
いつも重なるからなのではなく、紛れもなく「リンゴが赤い」からに他ならない。
これは私の認識に従属的であるということであり、
リンゴが別のものである可能性を提起することではない。
だから現象学で語りえることは、物理的な世界でも語りえるので、
そもそも現象学的な世界が「物理的な世界」に「成る」わけではない。
現象学は物理的な世界という「事実認識」を前提に本質を追及しているにすぎない。
>>26
「腕が痛い」の「痛さ」は、「壁が白い」の「白さ」と同じように、
病院の壁や、椅子や、注射器に存在しているわけではない。
逆に「壁が白い」は、「壁」に「白さ」があるのであって、私の眼球に
「白さ」があるわけではない。
従って、「痛い」は「白い」と同じ意味で生じているわけではない。
いや「白い」を「生じているもの」として解説するのは、論理的に意味をなさない。
>>24
お前が理解できているのかどうか一番心配だけどな。
>>28
「超克している」ということがいかなる正当性をもって言われているのか、
いまだ定かではないということです。
「我々の認識」とは、結局「私の知覚のすべて」であり、「私の認識」に従属することに変わりはない。
「リンゴが赤い」のは、「リンゴが赤く見える」ということと「他の人も赤く見える」ということとが
いつも重なるからなのではなく、紛れもなく「リンゴが赤い」からに他ならない。
これは私の認識に従属的であるということであり、
リンゴが別のものである可能性を提起することではない。
だから現象学で語りえることは、物理的な世界でも語りえるので、
そもそも現象学的な世界が「物理的な世界」に「成る」わけではない。
現象学は物理的な世界という「事実認識」を前提に本質を追及しているにすぎない。
>>26
「腕が痛い」の「痛さ」は、「壁が白い」の「白さ」と同じように、
病院の壁や、椅子や、注射器に存在しているわけではない。
逆に「壁が白い」は、「壁」に「白さ」があるのであって、私の眼球に
「白さ」があるわけではない。
従って、「痛い」は「白い」と同じ意味で生じているわけではない。
いや「白い」を「生じているもの」として解説するのは、論理的に意味をなさない。
>>24
お前が理解できているのかどうか一番心配だけどな。
>>28
「超克している」ということがいかなる正当性をもって言われているのか、
いまだ定かではないということです。
30: :2015/02/20(金) 20:16:02.34 ID:
現象学カテゴリーすらまったく理解していない人間が偉そうだな
31: :2015/02/20(金) 20:19:30.30 ID:
難しいよお兄ちゃんたち
32: :2015/02/21(土) 04:35:12.73 ID:
自分主体の哲学ではなく
人間主体の哲学じゃないと
意味がない(人間の役に立たない)
OK?
人間主体の哲学じゃないと
意味がない(人間の役に立たない)
OK?
33: :2015/02/21(土) 04:39:53.92 ID:
つまりは
宇宙物理学の数式こそが
表現として正であり
哲学と呼ばれるものは
その解釈の一部(これもまた数式)を
子供にもわかるように
その一例に対して
多少の曖昧さを含むニュアンスで
言葉にしているだけである
そこに発見も思考もない
宇宙物理学の数式こそが
表現として正であり
哲学と呼ばれるものは
その解釈の一部(これもまた数式)を
子供にもわかるように
その一例に対して
多少の曖昧さを含むニュアンスで
言葉にしているだけである
そこに発見も思考もない
34: :2015/02/21(土) 06:22:42.71 ID:
いくら思索したところで何も見出せないという結論だろ?
いくら思索したところで何も見出せないという結論だろ?
35: :2015/02/21(土) 23:16:39.56 ID:
>1の「私は存在する」とは、「私は考える」ということ以上の意味を持ち得ないと、
記しているけれども、結局のところデカルトの「私は考えるゆえに私は存在する」という命題に回帰するのでしょう。
記しているけれども、結局のところデカルトの「私は考えるゆえに私は存在する」という命題に回帰するのでしょう。
37: :2015/02/23(月) 01:31:35.92 ID:
お前らはやっぱりまだ俺の言わんとしていることがわかってないみたいだな。
38: :2015/02/22(日) 20:01:09.94 ID:
近代哲学の祖としてのデカルトは、コギト(超越論的主観性)を基点として心身二元論を
提唱したが、この心身二元論を基底として現代科学(=論理実証主義)が今日まで続いている。
つまり、今日の科学そして哲学は、心身二元論から一歩も深化していないのである。
デカルト自身は、心身二元論をもとに認識論と存在論とに分けてはいない。後世の哲学者が
分けているのであり、デカルト自身は心(精神)と身体(物質)は合一したものであるという
ことも述べている。この辺がデカルト哲学の謎として論究されている。
提唱したが、この心身二元論を基底として現代科学(=論理実証主義)が今日まで続いている。
つまり、今日の科学そして哲学は、心身二元論から一歩も深化していないのである。
デカルト自身は、心身二元論をもとに認識論と存在論とに分けてはいない。後世の哲学者が
分けているのであり、デカルト自身は心(精神)と身体(物質)は合一したものであるという
ことも述べている。この辺がデカルト哲学の謎として論究されている。
46: :2015/02/24(火) 15:21:50.40 ID:
>>38
デカルトは「疑う私」と「疑うことをやめさせる私」を根拠に、心と身体を合一するものとして
言ってるからね。
「疑うことをやめさせる私」が存在するということは、「疑う私」を根拠にする
デカルトにとってはとても不思議なことだ。
>>43
自分が存在するということ、自分以外の誰かが存在しているということ、
これらのことは、、思い測ろうが思い測らまいが、すでに成立していることだ。
デカルトは「疑う私」と「疑うことをやめさせる私」を根拠に、心と身体を合一するものとして
言ってるからね。
「疑うことをやめさせる私」が存在するということは、「疑う私」を根拠にする
デカルトにとってはとても不思議なことだ。
>>43
自分が存在するということ、自分以外の誰かが存在しているということ、
これらのことは、、思い測ろうが思い測らまいが、すでに成立していることだ。
67: :2015/02/28(土) 20:42:22.95 ID:
>>46
「疑うことをやめさせる私(=超越論的主観)」が存在するということは、「疑う私(日常的主観)」を根拠にする
デカルトにとってはとても不思議なことだ。と述べているが、私もデカルト哲学の超越論的主観(不可疑性)と
日常的な主観(可疑性)の“混在”に不思議さを感じている。
「疑うことをやめさせる私(=超越論的主観)」が存在するということは、「疑う私(日常的主観)」を根拠にする
デカルトにとってはとても不思議なことだ。と述べているが、私もデカルト哲学の超越論的主観(不可疑性)と
日常的な主観(可疑性)の“混在”に不思議さを感じている。
39: :2015/02/23(月) 09:14:38.35 ID:
独我論というのは、誰かを説得しようと論を立ててしまっている
時点で、既に負けを認めてしまってるんですよ?
時点で、既に負けを認めてしまってるんですよ?
40: :2015/02/23(月) 11:06:04.13 ID:
独我論は全く支持しないが
多くの論者は方法的に確実な根拠の出発点として独我から始めて世界を構成しようとしてんじゃないの?
最終的な主張が独我というわけでもない気がする
その独我が確実な根拠たりえない点で崩壊してるとは思うが
多くの論者は方法的に確実な根拠の出発点として独我から始めて世界を構成しようとしてんじゃないの?
最終的な主張が独我というわけでもない気がする
その独我が確実な根拠たりえない点で崩壊してるとは思うが
42: :2015/02/24(火) 02:54:49.06 ID:
>>40
あなたに独我を持たない存在の世界が想像できるなら主張を認めよう
あなたに独我を持たない存在の世界が想像できるなら主張を認めよう
41: :2015/02/23(月) 14:45:12.74 ID:
人類の不幸の原因は全て宗教にある!
正理会は宗教を超えた世界唯一の教団です。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi
正理会は宗教を超えた世界唯一の教団です。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi
43: :2015/02/24(火) 08:02:34.04 ID:
互いに慮る(思い測る)ことなしに自我も他我も成立しないでしょう。
それがプラトンの対話まで遡る知の常識(コモンセンス)というものです。
それがプラトンの対話まで遡る知の常識(コモンセンス)というものです。
45: :2015/02/24(火) 15:09:33.55 ID:
なんか知らんがぐちゃぐちゃに混乱してる
47: :2015/02/24(火) 15:23:39.77 ID:
>>45
最終的に整理されればそれでよろしい。
今はぐちゃぐちゃでも構わない。
最終的に整理されればそれでよろしい。
今はぐちゃぐちゃでも構わない。
48: :2015/02/24(火) 15:26:39.79 ID:
とりあえず俺は、今まで自分で学んできたことをここで打ち明けて、
これから学ぶべきことをここで学習したいと思っている。
これから学ぶべきことをここで学習したいと思っている。
49: :2015/02/24(火) 17:52:42.74 ID:
>>48
その基本的な考え方・捉え方は大変良いと思う。
まず、自分の考えをお互いに出し合い、いろいろな意見・考え方の中から
今の時代に即した多様性・現実性・統合性のある答えを創造し、解答を出し、
これらの、一連の考察を通じて学習し向上を目指す基本的姿勢はデカルトも「四つの規則」で述べている。
その基本的な考え方・捉え方は大変良いと思う。
まず、自分の考えをお互いに出し合い、いろいろな意見・考え方の中から
今の時代に即した多様性・現実性・統合性のある答えを創造し、解答を出し、
これらの、一連の考察を通じて学習し向上を目指す基本的姿勢はデカルトも「四つの規則」で述べている。
50: :2015/02/24(火) 18:06:42.05 ID:
51: :2015/02/24(火) 23:35:20.92 ID:
デカルトは「オリオン大星人には気をつけろ」という言葉を残した。これは彼なりに努力し真実の欠片の影でいいから見ようと頑張った結果なのだ。
52: :2015/02/25(水) 00:44:13.26 ID:
薔薇の棘が痛い
風が冷たい
陽射しが温かい
照明が暗い
近所の犬がうるさい
わさびが辛い
風が冷たい
陽射しが温かい
照明が暗い
近所の犬がうるさい
わさびが辛い
53: :2015/02/25(水) 00:46:02.60 ID:
痛い棘
冷たい風
暖かい日差し
暗い照明
うるさい犬
辛いわさび
冷たい風
暖かい日差し
暗い照明
うるさい犬
辛いわさび
54: :2015/02/25(水) 00:47:28.08 ID:
互いに慮る(思い測る)ことなしに自我も他我も成立しないでしょう。
それがプラトンの対話まで遡る知の常識(コモンセンス)というものです。
それがプラトンの対話まで遡る知の常識(コモンセンス)というものです。
55: :2015/02/26(木) 17:06:44.80 ID:
>>51
存在とは知覚の必然であり、
対象とは「そうあるもの」「こうではあってはならないもの」という意識に基づき定立されるにすぎない。
だからデカルトの省察は、まさに「オリオン星人には気を付けろ」という意識から始まり、
「私はオリオン星人ではない」という思考で完結してしまっている。
>>54
互いに慮る以前に自我と他我とはすでに成立しているのであり、
その証拠に「私」が存在することを疑ったりすることができない「私」
というものが存在している。
しかしこの超越論的な「私」とは一人しか存在しないというわけではない。
この「私」は、「私は存在する」と言われるときにすべての他者の存在意味を含みうることを
自明なこととして認識している「私」である。
それゆえ正しくは「互いに私という存在を思い測る以前に自我と他我は成立しているものとして
私は思い測らざるをえない」と表現すべきであり、この「私は思い測らざるを得ない」
という「私」が何者なのかが、検討されなければならない。
>>49
自分の考えだけに凝り固まっていては何も面白くない。
ここの掲示板は他人に空気を読ますようなレスばかりだ。
そんなものは見ていて何も面白くない。
存在とは知覚の必然であり、
対象とは「そうあるもの」「こうではあってはならないもの」という意識に基づき定立されるにすぎない。
だからデカルトの省察は、まさに「オリオン星人には気を付けろ」という意識から始まり、
「私はオリオン星人ではない」という思考で完結してしまっている。
>>54
互いに慮る以前に自我と他我とはすでに成立しているのであり、
その証拠に「私」が存在することを疑ったりすることができない「私」
というものが存在している。
しかしこの超越論的な「私」とは一人しか存在しないというわけではない。
この「私」は、「私は存在する」と言われるときにすべての他者の存在意味を含みうることを
自明なこととして認識している「私」である。
それゆえ正しくは「互いに私という存在を思い測る以前に自我と他我は成立しているものとして
私は思い測らざるをえない」と表現すべきであり、この「私は思い測らざるを得ない」
という「私」が何者なのかが、検討されなければならない。
>>49
自分の考えだけに凝り固まっていては何も面白くない。
ここの掲示板は他人に空気を読ますようなレスばかりだ。
そんなものは見ていて何も面白くない。
56: :2015/02/26(木) 19:50:46.98 ID:
>その証拠に「私」が存在することを疑ったりすることができない「私」
>というものが存在している。
誰もそんな証拠を提示できませんよ
>というものが存在している。
誰もそんな証拠を提示できませんよ
57: :2015/02/26(木) 19:58:20.19 ID:
誰も「私はいない」と主張することはできない≠私は存在する
58: :2015/02/26(木) 20:04:32.08 ID:
あ、間違えた。
×誰も「私はいない」と主張することはできない
○誰も「私はいまここにいない」と主張することはできない
×誰も「私はいない」と主張することはできない
○誰も「私はいまここにいない」と主張することはできない
59: :2015/02/26(木) 20:15:50.47 ID:
「誰も「私はいまここにいない」と主張することはできない」という主張は、なにを前提としているのか?
60: :2015/02/26(木) 22:50:05.17 ID:
そもそも、「sum」は、「我あり」ではなく、「私です」でしょ。
「It's me」が「ただいま」であり、「Here I am」が「いまきた」になるように。
「我こそここにあり」だって、「ただいま参上」って告知ですよ。
「It's me」が「ただいま」であり、「Here I am」が「いまきた」になるように。
「我こそここにあり」だって、「ただいま参上」って告知ですよ。
61: :2015/02/26(木) 22:54:18.81 ID:
問題になっているのは、存在が無かではなく、在(present)か不在(absent)かですね。
62: :2015/02/28(土) 13:52:01.07 ID:
存在者の存在、とりわけ、現存在の存在とはいかなるものか?
というのがハイデガーの問いですね。
というのがハイデガーの問いですね。
63: :2015/02/28(土) 15:56:43.54 ID:
哲学的な「無」の概念と、現象学で述べている「不在」の概念は、存在に於ける
捉え方が異なっている。「不在」の捉え方は、実存的(=現象学的還元)に於いて現出する。
捉え方が異なっている。「不在」の捉え方は、実存的(=現象学的還元)に於いて現出する。
64: :2015/02/28(土) 16:47:05.71 ID:
混乱は避けるべきだが、性急に単純化すべきではない
むしろ、慎重に混乱を解きほぐすことが哲学の歩むべき途
むしろ、慎重に混乱を解きほぐすことが哲学の歩むべき途
65: :2015/02/28(土) 17:00:20.56 ID:
日本語で考えるなら、存在者一般の存在は、あるかないかだが、
存在者のなかでも、現存在の存在は、いるかいないか、ということになる。
存在者のなかでも、現存在の存在は、いるかいないか、ということになる。
66: :2015/02/28(土) 20:00:23.07 ID:
日本語の古語では、「誰ぞあるか」のように、現代語では「いる」を用いる
文脈でも「ある」が使われていた。現代語では、「ある」は主として、
ハイデガーの用語いえば、「vorhanden sein」や「zuhanden sein」を
表すために用いられるが、古語では主として、位置と結びついた「いる」
という意味合いの方が強かったのだろうと思う。英語でも、位置と結びつけて
存在を示す場合、「memory resident program(メモリ常駐プログラム)」の
ように「いる」という表現が使われる。ハイデガーは、「言語は存在の家である」
と表現したが、その場合、やはり、「存在」は、そこに「いる」ものと
みなされていると言えるだろう。現存在(Dasein)という表現自体、位置に
結びつけられた存在を表している。
文脈でも「ある」が使われていた。現代語では、「ある」は主として、
ハイデガーの用語いえば、「vorhanden sein」や「zuhanden sein」を
表すために用いられるが、古語では主として、位置と結びついた「いる」
という意味合いの方が強かったのだろうと思う。英語でも、位置と結びつけて
存在を示す場合、「memory resident program(メモリ常駐プログラム)」の
ように「いる」という表現が使われる。ハイデガーは、「言語は存在の家である」
と表現したが、その場合、やはり、「存在」は、そこに「いる」ものと
みなされていると言えるだろう。現存在(Dasein)という表現自体、位置に
結びつけられた存在を表している。
73: :2015/03/09(月) 19:36:47.07 ID:
>>66
ハイデガーは、デカルト的なコギトを、存在了解とし、
存在了解の成り立つ根拠として、カント的な「人格」概念を見出している。
カント的な人格とは、私が思考するものであると同時に、思考しつつ感受するものであり、
このことから、人格は自己同一的であり、身の回りの事物から、触発されてくることによって
すでに世界内存在的であることを、解明している。
「存在の位置」とは、同時に「私の位置」でもあるのだろう。
しかしハイデガーの言っていることは抽象的でいまいちよくわからない。
>>67
おそらく、そのことを「混在」と捉えられてしまうのは、思考としての私をベースに置く
主知主義的な感覚で、捉えてしまっているからなのだろうと思う。
だから、認知論的な考え方から抜け出なくてはならないのではないだろうか。
メルロポンティが行ったように、「意識」を中心に捉えるのではなく、「身体」を中心に捉える
「存知論的」なアプローチが必要なのかもしれん。
ハイデガーは、デカルト的なコギトを、存在了解とし、
存在了解の成り立つ根拠として、カント的な「人格」概念を見出している。
カント的な人格とは、私が思考するものであると同時に、思考しつつ感受するものであり、
このことから、人格は自己同一的であり、身の回りの事物から、触発されてくることによって
すでに世界内存在的であることを、解明している。
「存在の位置」とは、同時に「私の位置」でもあるのだろう。
しかしハイデガーの言っていることは抽象的でいまいちよくわからない。
>>67
おそらく、そのことを「混在」と捉えられてしまうのは、思考としての私をベースに置く
主知主義的な感覚で、捉えてしまっているからなのだろうと思う。
だから、認知論的な考え方から抜け出なくてはならないのではないだろうか。
メルロポンティが行ったように、「意識」を中心に捉えるのではなく、「身体」を中心に捉える
「存知論的」なアプローチが必要なのかもしれん。
68: :2015/03/01(日) 01:03:02.21 ID:
>「疑うことをやめさせる私(=超越論的主観)」が存在するということは、
どちらにしてもその私が、ハエやゴキブリではなく、人であると信じる根拠がないな
どちらにしてもその私が、ハエやゴキブリではなく、人であると信じる根拠がないな
69: :2015/03/01(日) 01:12:22.63 ID:
ハエかゴキブリかヒトかということはひとまずこの時点では問題になってないのではなかろうか
70: :2015/03/01(日) 01:14:00.08 ID:
独我論で自らについて何を確信したところで、その我は人と規定されないし、
自らを人であると確信するなら、それと同時に他人がいることも確信することになる。
自らを人であると確信するなら、それと同時に他人がいることも確信することになる。
71: :2015/03/01(日) 01:16:40.47 ID:
>ひとまずこの時点では問題になってないのではなかろうか
ひとまずも、ふたまずもないよ。問題を棚上げにするなら、
自らについて何を確信しようと、それに基づいて、人についても、
人でないものについても何も言えないことになる。
ひとまずも、ふたまずもないよ。問題を棚上げにするなら、
自らについて何を確信しようと、それに基づいて、人についても、
人でないものについても何も言えないことになる。
72: :2015/03/01(日) 13:09:29.37 ID:
この世は幻
色即是空、空即是色
色即是空、空即是色
74: :2015/03/09(月) 19:41:57.44 ID:
結局「存在とは何か」「存在するとはどういうことか」
って問いに行き詰るわけか…
やはりこれが一番の問題なんだな…
って問いに行き詰るわけか…
やはりこれが一番の問題なんだな…
75: :2015/03/09(月) 21:18:45.86 ID:
評価社会哲学
https://www.youtube.com/playlist?list=PLYHYVkh9d3ebnCF7zGxZwVHsata4ratb2
https://www.youtube.com/playlist?list=PLYHYVkh9d3ebnCF7zGxZwVHsata4ratb2
76: :2015/03/10(火) 00:01:37.28 ID:
あらゆる認識、概念は基準があって始めて成り立つ。全て相対的なものだ。そしてその中心は自分。存在とは自分以外に直接的・間接的に観測できるものを指し、自分の思考は自分ではリアルタイムに観測できない。
という事では無い。
という事では無い。
77: :2015/03/14(土) 00:29:38.28 ID:
「ある」「いる」ということを認識すること自体が、既に自我と異なる対象を仮定していると思うけど。
独我論は前提が間違っているのでは…?
独我論は前提が間違っているのでは…?
81: :2015/03/18(水) 12:12:57.50 ID:
<<71
ハイデガ-は、存在者(日常的次元)から現象学的還元によって、非本来性として
現存在の間主観的な存在了解としての「世界の内に存在する」という認識に到達している。
ここで問題となるのは、「私(=主観)」が対象とする「世界」と、どの様に関係しているかである。
ハイデガ-が述べている“存在の本質”に於ける根本命題は「それぞれが私である」という認識ですが、
この「命題」より分かることは、ハイデガ-の「間主観的認識(世界内存在)」は、基本的にはフッサ-ルと
同じように、主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入すると言う“存在了解”としてあることです。
ハイデガ-は、存在者(日常的次元)から現象学的還元によって、非本来性として
現存在の間主観的な存在了解としての「世界の内に存在する」という認識に到達している。
ここで問題となるのは、「私(=主観)」が対象とする「世界」と、どの様に関係しているかである。
ハイデガ-が述べている“存在の本質”に於ける根本命題は「それぞれが私である」という認識ですが、
この「命題」より分かることは、ハイデガ-の「間主観的認識(世界内存在)」は、基本的にはフッサ-ルと
同じように、主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入すると言う“存在了解”としてあることです。
82: :2015/03/18(水) 13:10:44.19 ID:
>主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入すると言う
ハイデガーは、「主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入する」という
理解の仕方を明確に否定している。
ハイデガーは、「主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入する」という
理解の仕方を明確に否定している。
88: :2015/04/18(土) 17:04:58.11 ID:
>>82
ハイデガ-は、「現存在」の概念を、時間を基底とした“有限な存在”であると述べている。
「世界内存在」の世界の内に“存在”するのは、それぞれの「私」であり、この「私」とは
相互性を持った「私」として、相互主観的(=間主観的)な概念として認識されている。
ハイデガ-は、「相互主観性(=間主観性)」という言葉は使わないが、この相互主観性の存在を
「現存在」という言葉に置き換えている訳である。
何故、ハイデガ-が「相互主観的」存在ではなく、「現存在」と記述したのか、自分の推測ではあるが、
フッサ-ルの「不動性の時間」論理に対して、ハイデガ-は「動的時間」論理を提起し、その違いによるものと解釈している。
ハイデガ-は、「現存在」の概念を、時間を基底とした“有限な存在”であると述べている。
「世界内存在」の世界の内に“存在”するのは、それぞれの「私」であり、この「私」とは
相互性を持った「私」として、相互主観的(=間主観的)な概念として認識されている。
ハイデガ-は、「相互主観性(=間主観性)」という言葉は使わないが、この相互主観性の存在を
「現存在」という言葉に置き換えている訳である。
何故、ハイデガ-が「相互主観的」存在ではなく、「現存在」と記述したのか、自分の推測ではあるが、
フッサ-ルの「不動性の時間」論理に対して、ハイデガ-は「動的時間」論理を提起し、その違いによるものと解釈している。
83: :2015/03/18(水) 16:25:47.44 ID:
ハイデガ-の「現存在」は、私という主体性を持った個体であり、有限なる存在として
「世界内存在」に存在している。この「世界内」に存在している「それぞれの私」は、有限な存在
であるので、現存在の“基底”において「身体性」を有していると捉える方が、論理の整合性がある。
ハイデガ-の実存的な「現存在」の概念は、現象学的還元(=間主観的還元)によって現出しているからである。
「世界内存在」に存在している。この「世界内」に存在している「それぞれの私」は、有限な存在
であるので、現存在の“基底”において「身体性」を有していると捉える方が、論理の整合性がある。
ハイデガ-の実存的な「現存在」の概念は、現象学的還元(=間主観的還元)によって現出しているからである。
84: :2015/04/18(土) 12:10:11.95 ID:
世界内ねぇ
85: :2015/04/18(土) 12:55:15.54 ID:
論理が逆になっていることに気づかない。
個体であり、有限であるのではなく、有限であることが
個体性として現れる。
個体であり、有限であるのではなく、有限であることが
個体性として現れる。
86: :2015/04/18(土) 12:56:46.15 ID:
これだから、ハイデガー信者は中途半端なんだよ
87: :2015/04/18(土) 16:35:50.93 ID:
ハイデガ-の「世界内存在」の概念は、日常的生活次元からの現象学的還元によって
「それぞれが私である」という命題に達している。この「それぞれが私である」の“私”は、
ハイデガ-哲学の中心的概念としての「現存在」でり、「現存在=私」のことであるがハイデガ-は
デカルトの「主観-客観」構図という超越論的論点を嫌い、主観とか自我、客観という言葉を使ってはいない。
従って、個体(=自我)とは主観のことであり、自我は身体性と密接に連動しているので有限な存在として認識されている。
「それぞれが私である」という命題に達している。この「それぞれが私である」の“私”は、
ハイデガ-哲学の中心的概念としての「現存在」でり、「現存在=私」のことであるがハイデガ-は
デカルトの「主観-客観」構図という超越論的論点を嫌い、主観とか自我、客観という言葉を使ってはいない。
従って、個体(=自我)とは主観のことであり、自我は身体性と密接に連動しているので有限な存在として認識されている。
89: :2015/04/18(土) 17:23:52.88 ID:
ハイデガ-の「世界内存在」の概念は、日常的生活次元からの現象学的還元によって
「それぞれが私である」という命題に達している。この「それぞれが私である」の“私”は、
ハイデガ-哲学の中心的概念としての「現存在」でり、「現存在=私」のことであるがハイデガ-は
デカルトの「主観-客観」構図という超越論的論点を嫌い、主観とか自我、客観という言葉を使ってはいない。
従って、個体(=自我)とは主観のことであり、自我は身体性と密接に連動しているので有限な存在として認識されている。
「それぞれが私である」という命題に達している。この「それぞれが私である」の“私”は、
ハイデガ-哲学の中心的概念としての「現存在」でり、「現存在=私」のことであるがハイデガ-は
デカルトの「主観-客観」構図という超越論的論点を嫌い、主観とか自我、客観という言葉を使ってはいない。
従って、個体(=自我)とは主観のことであり、自我は身体性と密接に連動しているので有限な存在として認識されている。
90: :2015/04/18(土) 17:53:45.54 ID:
ハイデガ-は、存在者(日常的次元)から現象学的還元によって、非本来性として
現存在の間主観的な存在了解としての「世界の内に存在する」という認識に到達している。
ここで問題となるのは、「私(=主観)」が対象とする「世界」と、どの様に関係しているかである。
ハイデガ-が述べている“存在の本質”に於ける根本命題は「それぞれが私である」という認識ですが、
この「命題」より分かることは、ハイデガ-の「間主観的認識(世界内存在)」は、基本的にはフッサ-ルと
同じように、主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入すると言う“存在了解”としてあることです。
現存在の間主観的な存在了解としての「世界の内に存在する」という認識に到達している。
ここで問題となるのは、「私(=主観)」が対象とする「世界」と、どの様に関係しているかである。
ハイデガ-が述べている“存在の本質”に於ける根本命題は「それぞれが私である」という認識ですが、
この「命題」より分かることは、ハイデガ-の「間主観的認識(世界内存在)」は、基本的にはフッサ-ルと
同じように、主観(自己)が間主観的還元を介して、他者へ転移・移入すると言う“存在了解”としてあることです。
91: :2015/04/18(土) 18:17:35.45 ID:
>>89と>>90は、私が書いた文章ではない。
意図的に誰か書いたものと思うが、自分の意見を述べることだ。
意図的に誰か書いたものと思うが、自分の意見を述べることだ。