【概要】
- 人が人を支配する空間を意図的に創り出せるものがカリスマだと思う。
- その空間は人の意識を支配して操り人形に変えてしまう。
- 考える事を放棄するのは楽だけど代償が待ってるってことかな。
シャア 「地球に住む者は自分達の事しか考えていない、だから抹殺すると宣言した」
アムロ 「人が人に罰を与えるなどと」
シャア 「私、シャア・アズナブルが粛清しようというのだ、アムロ」
【内容】
愛情による支配は正当化しておk?
「これはあなたのためなのよ」「あなたのことを一番わかっているのは母である私」「あなたは私がいないとダメなのよ」
このような一見、「子供のため」と思っているように見える言動は、実は母親自身の利益や満足のために行われており、子供を追い詰めて心を支配する、心理的な虐待にもなりかねません。
以前は虐待というと、殴る蹴るなどの身体的虐待ばかりがフューチャーされてきましたが、今は言葉による虐待や、真綿で首を絞めるような心理的虐待、兄弟間差別といった精神的に追い詰める虐待の数々が表面化してきました。
しかしながら、母から娘への行為は、どんなことでも基本的には愛情というフィルターを通して行われています。だから、娘は虐待とは思わないし、もちろん母も虐待とは思っていません。娘はその行為を重荷や疑問に思っても「母が虐待をするわけがない」「そんな風に思うなんて私は悪い子だ」と罪悪感を植え付けられます。
でも、自分の人生がままならなくなったとき、例えば、「自分は他人に比べて仕事が長続きしないし、人間関係も長続きしないけど何かあるのだろうか」――と悩んだときなどに、もしかしたら、昔から母に言われてきたことや、されてきたことが関係するのではないだろうかと考えるようになる。知らず知らずのうちに、母に支配されていた自分に気づくのです。
貼り付け元 <http://toyokeizai.net/articles/-/79760?utm_source=feedly&utm_medium=http&utm_campaign=link_back>
愛情って難しいと思う。
躾けって言葉がある。
お尻叩きや怒鳴る行為ってのは、傍から見ると「え?」って行為だと思う。
でも、当人たちは愛情というマジックワードがあるからそれを正当化している。
親の立場から見ると、「あなたのために」ってなる。
子どもの立場から見ると、「信じてみよう」になる。
だって子どもは親に頼らないと生きられないじゃん。
だから、誰もが必ず一度はお世話になっていたことを自覚する。
それが、多少の躾けも受け入れる動機になっているのかなって感じた。
人を支配するには思考を奪えば良いのかもしれない
こういうケースってよくある。
例えばスポーツで体罰を盛んに行う強豪チームとか。
コーチ「歯ぁ食いしばれぇッ!」
子ども「ハイッ!」
親「…!」
親の目の前で子どもが殴られてる。
でも親は何も言わない、子どもは従う。
なぜなら、そこには信頼関係があるから。
その空間はまるで隔離された盲目な世界みたいで、完璧に統制された宗教みたいなもんだと思う。
教祖様には誰も何も疑わず、ただ信じるだけ。
この空間を意図的に創り出せる人間が支配者になれる。
カリスマってのは、世界を構築できる人間なのかもしれない。
この感覚を悪用したのがナショナリズムとか選民思想だと思う。
54 名前:風吹けば名無し@\(^o^)/[] 投稿日:2015/08/10(月) 02:43:34.00 ID:lJtOtT0H0.net
民族意識ずううううううううっと保ってたのがすげえと思う
62 名前:風吹けば名無し@\(^o^)/[] 投稿日:2015/08/10(月) 02:46:37.76 ID:sdiwpwwP0.net
>>54
弾圧される
↓
「これはワイらが有能やからこんな目にあうんやな」
とかいう謎のポジティブシンキングの賜物
バビロン捕囚とかいう奇跡の前例がある分なおさらこの考えが強くなる
自分の持つ感性を自分が操るのか他人に委ねるのか。
どちらも正解はないけど、楽なのは委ねることだと感じてます。