「早く、短く、簡潔に」を推奨するSNSが人の心を惑わせていく!

【概要】

シンプルに込められる想いが読めないと価値が分からない。

価値が分からないから単純な評価と考えしか浮かばない。

簡潔が単純になると、人は人でなくなっていく。

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赤木リツコ「やめなさいシンジ君!ヒトに戻れなくなる!!」

葛城ミサト「行きなさいシンジ君!誰かの為じゃない!アナタ自身の願いの為に!!」

ゼロベースでシンプルに考えて、深く広げる事が求められている。

情報に価値付け出来るのは人間だけだ。

 

【内容】

シンプルの中にあるもの、あったもの。

この「イノセンス」は前作「GOHST IN THE SHELL」で培った話をもとに続編として作られたが、文芸面でもビジュアル面でも全てにおいて押井映画の集大成に相応しい最高傑作となった。2000年以降でこんなに凄いアニメに出会えるなどとは思いもしなかった。もうただただ目の前で繰り広げられる世界の前に私は黙るしかなかった。語る言葉を持ち得なかった。それでも何とか言葉にして語ることはできないものかと一生懸命あれこれ文献を探り、必死に勉強し、何回も徹底的にこの作品を見直した。実際この作品を全て自分のものにするために、この作品だけで100回近くは見直している。それでもまだこの映画の持つ圧倒的なパワーには毎回驚かされてばかりだ。泣いたわけでもない、笑ったわけでもない、ただ只管にこの作品を受け止めるだけだ。

 

この作品は「パト2」以上に押井氏の日本及び人間に対する絶望感が露骨に出ている。この作品ではそれを全て言葉にし、時には偉人の名言を引用してまで全て言葉にして語らせている。それでありながら前作から続いている「バトーと草薙のプラトニックな恋愛関係」、「人形と人間の区別の曖昧さ」、「人間という生き物の不確かさ」を一本の刑事ドラマの中に尺として見事に収めきっている。と同時にこの作品はもはやこれまでに出てきたロボアニメも含む全てのSFアニメを総括しかつその行き着く究極の世界までをも示して、これ以上のカッチリした世界観は魅せられないという限界点をも示してしまった、まさに「SFアニメーションの頂点」なのである。富野も宮崎も庵野も高橋もありとあらゆる日本のSFアニメ作家が行き着こうとして誰も辿り着くことが出来なかった世界観とお話に押井氏は己の持つ作家生命の全てを賭けて行き着いたのである。この作品が織りなす重厚な世界観とCGと手書きの融合による美麗なアニメーションには押井監督とProduction.I.G.のスタッフの並々ならぬ意気込みと熱意がひしひしと伝わってくる。結果として興行収入自体は並みだったにせよ日本SF大賞を受賞しカンヌにまで出品され(日本アニメでは今のところこれだけ)海外でも高い評価を得ている。また、今再評価の兆しがあるように思う。

 

さて、前置きはこれぐらいにして本格的にこの作品の批評に取り掛かろう。まず、文芸面で見て行くと、このストーリーは前作「GOHST IN THE SHELL」で草薙が行方不明になって三年、バトーが隊長の座を引き継ぎトグサがそのパートナーになっている。そうした世界観でバトーは表には出さないけれどもあの頃より円熟味が出て優しいキャラクターになり、トグサも青臭さがなくなって一端の刑事になっている。そんな中で今回出てくるのは人形の話である。少女型の愛玩用アンドロイド「ハダリ」が原因不明の暴走を起こし、所有者を惨殺するという事件が発生した。その大元を追ってバトーとトグサは捜査を開始するわけだが、この作品において一番の根幹を織りなすのは「究極の身体論」である。バトーとトグサが捜査の中で出会う多くの人物達はそれぞれに身体に対する確固たる哲学や主張を持っており、引用がちりばめられた会話によって身体論は複雑になっていく。だが、どの主張も一見して筋が通っている反面、どれも個人的感情を越えることはできないままだ。他者の思想を肯定することも否定することもできないまま、主人公であるバトーにも答えは見出せず、ただひたすらに個人的な葛藤や職務と戦い続けるのみとなってしまう。

 

特にこのアニメで一番痛烈だった主張は一番の大ボス的存在だったキムの「人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし、そして、その種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない」という台詞である。要するにこの台詞でもって押井氏は「もう人間なんて人形と同じだ。全部自分で勝手に世界を作り上げて、その結果こんなろくでもない世の中になっちまったんだ」というところに至る。そう、我々人間とは何ともいい加減で不完全な生き物なのである。このように偉そうな作品批評をしている私ですら、自分が書く作品批評が偏っていることなど自覚済みだしからよらない批評など存在しないのである。これは小津安二郎映画にも共通して言えるテーマであり、映画監督でもあり批評家でもある吉田喜重は小津安二郎生誕100周年記念のシンポジウムで、「小津監督は現実がいかに無秩序でかつ人間という生き物の見る目がいかに不確かであるかを知っていました。しかしそんな世界の中に敢えて小津監督は秩序を与えようとしたのでしょう。それがあの徹底したローアングルや真正面の切り返しショットに出ている」と語っている。

 

そう、人間とはどこまで行こうと結局完璧にはなれない存在なのである。本当に完ぺきになるならば意識すらも捨てるか、人形か神になるほかはない。つまり魂を与えられ自分という立場を与えられている限り人は自分以外の視点で物事を見ることも語ることも出来ないのである。想像や推測はできても結局それは個人が出来る領域を超えることはできないのである。だからこそその行き着く究極が無限の強さを得るために自分や愛する人と似た人形を作り、そこにオリジナルを基にした偽人格(この作品ではゴーストと言う)を吹き込んであたかも人間であるかのように生きさせるのである。そしてこれに留まらずキムの主張は続き「外見上は生きているように得るものが、本当に生きているかどうかと言う疑惑。その逆に生命のない事物がひょっとして生きているのではないかという疑惑。人形の不気味さはどこから来るかというと、それは人形が人間の雛形であり、つまり人間自身に他ならないからだ」「間が簡単な物質に還元されてしまうのではないかと言う恐怖。つまり人間と言う現象は本来虚無に属しているのではないかという恐怖」「人間もまた生命と言う夢を織り成す素材に過ぎない。夢も知覚も、いやゴーストさえも均一なマトリクスに生じた裂け目や歪みだとしたら」と続いていく。

 

しかし、是でさえも結局キム自身が自分で作り上げた都合のいい理論に過ぎず最終的にバトーにハッキングされ見破られてしまうのだ。ここが押井映画の凄いところであり、いくつもの人格に自分の言い分を語らせながらもそのいずれにも与さないという徹底して突き放した立場を取っているのである。キューブリック映画同様この映画も事ほど左様に台詞をメタにメタを重ねて成り立っている。そして、それでありながら最後の最後に出てくる草薙少佐とバトーの肉体を持たないが故の、でも確実に深まっているプラトニックな信頼関係は実にストレートに語られており適切に我々の中に響いてくる。そしてそのような禅問答には作中でだれも答えを持ち得ない。しかし、最終的にバトーは犬を抱きかかえ、トグサは自分の愛する娘の元へ帰っていく。そう、押井監督の行き着きたかったところは結局ここなのだ。なんだかんだいって結局人間というものは完璧である必要なんかないしかといって生きることをやめる必要もない。自分を埋めてくれる他の存在の中で自分の存在を確認できればそれでいいのである。実に当たり前で凡庸極まりない結論かもしれないがこれでいい。結局あれこれ悩みながらも人生ってシンプルなんだよってのが答えだったのだろう、少なくとも私はそう思う。当たり前ということは逆にいえば真っ当ということなのだから。

 

そしてこれらを可能にしているのが手書きとCG、そして音響で魅せるアニメーション技術なのである。この作品で使われているCGは他にアニメや特撮で使われているものとは趣を異にしている。『イノセンス』のCGは「虚栄」であり実体がない。我々はCGというと「現実にある事物では表現できないものを表現できる魔法の道具」という認識をどこかに抱いている。だがそれは逆に言えば「仮初めの偽りの道具」ということでもある。そのようにCGに対して妙な幻想を抱かずにその使い方を適切に見極めて効果的に使い、このような位置づけをしたアニメや実写、特撮も含め他に私は知らない。普通、CGは「夢の道具」である。この作品におけるCGの存在意義は圧倒的な映像美だけにあるのではない。この作品の真の魅力は「手書きとCGを巧みに使った映像美」だが、実はそれだけではない。確かにそれは半分は当たっているが本質ではないのだ。この一見して圧倒的なビジュアルもまた所詮は儚いものであるという冷徹なものでしかないという押井監督のスタンスに基づく静謐な存在なのだ。

 

そして動く存在は一貫して手書きのセルアニメーションで描かれている。バトーたちも人形も魂の宿っているものは全て手書きで書かれている。そしてこの人形の動きもまた面白く、前作「GOHST IN THE SHELL」で特徴的だった「リアリティコントロール」が群を抜いて素晴らしいのである。音響は勿論本物を使っているから今さら言うまでもないが、銃弾を食らって無表情にやられていく人形の断末魔の動きが実に凝っていて面白い。この人形の動きは当たり前に思えるかもしれないが、アニメーターはこの動きを実現するのに相当苦労しはずだ。今まで表情で出していた「撃たれている状況」を一切表情に出さず動きだけで伝えるというのは一番アニメーションにおいて難しいことである。しかもこれは押井映画なので当然ながら現実のそれっぽく動かす必要がある。だから「肩上げてごらん。腕だけで上がるんじゃないんだろ?こっちの肩が上がればこっちの肩は下がる」という人間の常識が人形の場合全然通じないのである。しかし、終盤での次々襲いかかってくる人形の動きは間違いなくその人形らしい動きを再現しておりアニメーターの血と汗と涙の結晶がここに詰まっているのである。これはいかにもアニメアニメした動きを見せるジブリアニメには出来ない芸当だ。

 

そして、若干の違和感はあるが、少なくともパッと見た限りでは分からないほどこの作品ではCGとセルが見事に融合している。実写、アニメ、CGの間に横たわるセルとCGという国境線を越えて、生命感はやってくる。ここまでやってくるともはやCGがどうのこうので争っていたことがもはやどうでもいいほどバカバカしく思えてくるのである。最後にはそんなもの全てを超越してこの作品の全てが一体となって生きていることを感じさせられる。人形の作り上げたでっち上げの世界でメタ的な台詞の応酬を交わしながら、それでも最終的に段々と生命感が宿っていくのだ。それは現代において魂のみが残り肉体的感覚を殆ど失った我々現代人に対する押井監督からの問いかけであり、そしてプレゼントなのだ。この生きることを実感することさえも難しい世の中で、ブレードランナー的な世界観を基に押井監督の持てる作家生命の全てが見れば見る程じわりじわりと伝わってくるのである。ここまで「生命」というものと一見真逆の世界観と話からこのような真っ当な答えにすんなり辿り着けた作品がほかにあっただろうか?少なくとも私は知らない。そして、この作品が証明してみせた人形に少しずつ魂の宿っていく過程には今までどんなSFアニメも成し得なかった「そこに世界がまるで存在するかのようだ」というリアリティを味あわせてくれるのだ。

 

だからもう、この作品の凄さが一旦分かってしまうともうそれまでの「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」などどんな御大層なSFアニメも、またSFの皮を被った荒唐無稽なアニメももはや石碑程度の存在感しか主張できない。文芸面においてもビジュアル面においても、これ以上に分かりやすくて価値があって、かつアニメーションとして突きぬけてる作品は他にない。少なくとも私はそう思う。この作品に今の時代出会えたことを感謝したい。恐らく今後どんなに画質やCGの優れた作品が出てきても、どんなに吃驚仰天のアイデアが出たとしても、作品世界の織り成す重厚さ・緻密さでこれを上回るリアリティを出せるものは存在しないと思う。まさにそんなアニメーション業界が目指した頂点へと行き着いた「最高傑作」、それが私のイノセンス評だ。今後この評価はずっとかわることなどないだろう。評価はもちろん「最高」である。最後に一言…押井監督、お見事です。

 

貼り付け元  <http://sakuhindb.com/janime/Innocence/>

↑この批評を見て何を思うかってのがとても重要だと思う。

ある人は「何本気になってるの?」、「長い、三行で」、「文章下手すぎ乙」

ある人は「情熱が凄い」、「俺にも理解!」、「そういう視点があったのか…!」

 

人によって感じ方は違うのでなんとも言えない。

けど、おれはこれをスゴイと思ったし、『シンプル』について考えさせられた。

 

批評「伝えたい事はシンプルだけど表現は難解だよ」

批評「アナログとデジタルにまつわるリアリティの乖離を結合させようとする表現は見事だ」

↑要はこういうことだと思う。

アナログの毎日を不完全な輪廻と見て、デジタルの毎日を完全な永遠と見る。

けどアナログに生きる人間に完璧は無理だから、ぜめて在るものを通じて存在を感じていよう。

 

結論を見れば至ってシンプルな答えだと思うかもしれない。

けど、僕はそこを考えた。

GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0 & イノセンス 劇場版2作品パック DVD-BOX (全2作品, 182分) こうかくきどうたい 士郎正宗 押井守 アニメ [DVD] [Import] [PAL, 再生環境をご確認ください]

現代社会と現代人の抱える問題。

『今北産業』という言葉を知ってますか?

これは「今スレッドに来たから流れを三行で簡潔に教えてくれ!」って意味です。

応じたスレ民は三行で簡潔に説明レスをする。

 

2ちゃんの特徴…というかSNSにも共通する賞賛される要素、それが『早く、短く、簡潔に』ってやつ。

 

多くの人は難しいことを簡単に説明できる人が有能だと考えていると思う。

そういう意識が3つの要素をより際立たせてるのかな。

 

「140文字では結論を述べることは出来ても味わい深さを語ることはできないんじゃね?」

何となく、Twitterが爆発的に普及してきた時にそう思った。

 

それって、語り手が並列化を起こすってことだと思う。

皆がみんな早く短く簡潔に発信したら、誰が味わい深さを語るのか。

主観を排除した発信は心に留まりにくい情報になってしまうと思うんだ。

 

つまり現代人が抱える問題は『簡潔な情報を深化出来ないこと』にある。

最近はデータサイエンティストが注目を集めてるけど、なんかそれとは違う気がする。

もっと集積した情報からビジョン(未来)を描ける人材、ビジョナリーデザイナーを育てるべきだと思う。

 

そして現代社会の問題は『データ提供者に未来を感じさせる仕組みがない』ってことにある。

ビッグデータを集める人は様々なことを考えて笑うと思う。

でも提供者は自分のデータが抜かれて利用されることに奇妙な違和感を持っているんじゃないかな。

 

両者が一致しないと不信感が拭われない。

それは何をするにしても大きな障害になり得るんじゃないかと思う。

 

95~05年、05年~15年とネットは10年スパンで大きな進化を遂げている。

次の15~25年はきっと、意志の宿る情報、血の通った情報がダイレクトに響く社会になればイイなって感じた。

データサイエンティスト データ分析で会社を動かす知的仕事人 (ソフトバンク新書)

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