【概要】
- 「同乗するなら金をくれ」ってフレーズを思い出した。
- 同乗するだけでなく、具体的に何かしてくれよって意味だと思う。
- 同情と共感はどう違うのかって気になった。
碇シンジ「共感だけじゃ心が満たされないんだよッ!!」
【内容】
裏切り者だが共感できる戦国武将
とりあえず謀反人この3人はガチか?
明智光秀
荒木村重
陶晴賢
信長にいじめられてたのは確かなのでは?
本当意味では共感ではないかもしれんが
俺でも裏切っていたというのでもいいんでないか?
俺は長曽我部かな。
だからそれが判断できねーっつーの。
そりゃ鉄砲いきなり撃ち込まれたらビビっちゃうよね、ああなったらもう西軍に殴り込まざるを得ないわ
気概のある武将なら東軍に殴り込まないかい?
家康を従属させた秀吉は、
家康の同盟相手だった雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を討ち従えた。
しかも佐々を討った際に、
秀吉は家康に佐々の本領安堵してやる代わりに、
お前はさらに人質を出せや!と言われる始末。
従属したくせになかなか上洛して挨拶に来ない家康を、
秀吉は表裏と捉え始め、
上洛しないなら、さらなる人質提出を要求。
怖いので上洛したくない家康は家臣を集めた大会議をして家臣らに人質を出すよう説得。
そして秀吉も美濃での緊張を高めて、
家康を圧迫しまくる。
家康は家臣説得に失敗し、
これを契機に徳川を見限った石川が豊臣へ逃亡。
すでに調略を受けた小笠原も秀吉に寝返り、高遠の保科を攻め始める始末。
ついに進退極まった家康は、秀吉の信雄に懇望し、
秀吉と婚姻して縁戚になったら上洛しますと土下座。
しかしやっぱり殺される恐怖から上洛を躊躇する。
秀吉は天皇即位式には義弟家康を出席させようとしていた為に、
天皇のため、自分の母を、義弟家康の上洛中だけ限定の人質に出すことにして朝廷の面目をたてた。
柴裕之氏
石川数正の徳川氏からの出奔について
「指南下にあった貞慶の離反という政治情勢と、
これに伴い徳川家中において政治力を失ったことを起因とした事件であったことが言える」
つまり小笠原が先に離反し、その後に秀吉に徳川家臣団が追加人質を出す説得に失敗した石川が離反。
天正14年11/24秀吉→小笠原幸松(秀政)
人質になって岡崎にいたが石川数正と一緒に退いてきたと小笠原長慶(父が長時であり「長」の通字を相続していた貞慶のこと)
へ仰せ遣わしたので安心した欲しい。
などと書いていて小笠原長慶が家康から離反していたが、岡崎にいた嫡男の生命を心配していたのがわかる。
そのために逃げてきた息子の安否を秀吉が父の長慶へ報せたよって内容の書状。
石川が小笠原の人質をもって離反したから、やむなく小笠原も家康を離反したとか、
細かいところまでキッチリとでっち上げのウソを挿入しまくってるw
真田昌幸が北条へ沼田を引き渡さないから、
怒りくるった家康が天正13年4月に甲斐に出陣して真田を威圧。
7/15に上杉が真田に起請文を出す。
これにより徳川軍7000が上田城へ侵攻し、
真田と徳川は戦闘開始するも惨敗し9月には上田城を徳川軍は攻めることすら諦めて傍観状態。
10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には、
真田に対して、小笠原貞慶と協力するように言っていて、
11月に岡崎城代石川数正が逃亡しているので、
明らかに石川よりも小笠原の方が先に離反してるのにwww
信濃を代表する真田、小笠原、前年に離反した木曾の三大族が家康を見限ったことで、
実質的に家康は信濃の大半を失ったことになる。
家康異父妹でバツ3の多却姫が嫁いだ高遠の保科がいなかったら、
家臣総離反で家康はドミノ倒しのように離反だらけになってたよなw
家康は秀吉の調略戦に大敗して、
秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなったんだよ。
北条と家康の会談で同盟強化?いやいや家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談だろwww
それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてる、
どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
他の関連一次史料書状には、人質なんて話は出てこず
石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけだろ。
百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと
北条相手に虚勢を張る言い訳をして誤魔化しているようにしか見えない。
10/17 秀吉が昌幸へ小笠原と協力するように命じる。
11/13 石川が「女房衆」と共に逃亡(家忠日記)
11/15 北条殿宛家康書状(武江創業録)13日に石川が「小笠原人質召連候」と書いて北条へ弁解してる。
11/17 石川が「足弱」を同道して織田信雄の元へ逃げてきたことを秀吉は述べている。
11/19 昌幸への秀吉の書状でも石川の逃亡と「足弱」についてを述べ、
今年はもう残り少ないので、家康討伐は正月15日以前動座を伝える。
11/19 11/21の下条宛の家康書状でも石川伯耆尾州退散と書いて人質の話すら出てこない。
11/20 秀吉が三河侵攻するため大垣城へ正月15日以前に着陣するので一柳へ兵備の準備を命じる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促す。
11/29 天正大地震発生。
12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み
1/9 景勝へ上杉軍の雪解け2月中頃の信濃出陣を命じ、四国・中国の軍船が2月下旬には海上を封鎖すること。
関白軍の先陣は当月出陣、追って2/10の関白秀吉尾張着陣予定を伝える。
1/24~29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
1/25 家忠日記に大雨降、水出候とあり、家忠のいた近辺で水があふれたようだ。
2/8 家康と秀吉の和睦がなる。
もう家康は屈服して臣従する以外の道は残されてなかった。
>>天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正13年8/25に木曽川大洪水が起きて、天正12年戦役で秀吉が信雄・家康から奪い取った
尾張北西部で前代未聞の大損害が発生。葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こった。
この災害をなんで、あたかも天正14年1/25の大雨降、水出候と
同じ時期の出来事のように見せかけようとして混ぜてんの?アホなの?
天正13年11/29の天正大地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに
徳川領国だけでしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け
越中でも木舟城が被害を受け、伊勢でも人家多数倒壊死者続出、
京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、
三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだしよ。
木曽川の氾濫なんて三河は関係ねーだろアホw
以前にも下記で指摘してんだろ。
荘厳講記録(経聞坊文書)において天正13年8/25申時に大洪水が起きて
田畑流され郡内中数多家共二流死候 前代未聞候 上下迷惑不過之候
などと書いてあって、木曽川で大洪水が発生しててこれを「前代未聞」と特筆している。
それと並列して家忠日記7/5 の記事をかぶせているが、
それは大洪水の被害ではなくて、地震の話だろw堤の話で誤読してんじゃねーよ文盲。
幡豆郡で堤を築いている最中に大きな揺れが続いたって話で、
結局、堤が崩れるわけでもなく被害なんてなかったじゃねーかよw
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
そしてビビり家康からさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、
秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、
天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。
自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、
秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、
これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、
どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、
上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。
ガチで自分の命が惜しくて仕方が無い。
最強命乞い大名。
上洛する前もそうとう怖くて、
北条相手に上洛したら騙されて殺されるかもと泣きついたらしく、
家康が上洛中に北条は領内大動員をかけて、
北条側は「当方之興亡此時候間」とか、
「万一於京都表裏之扱有之者」とか、
「万一西表有相違之筋目」
などと秀吉相手に大決戦する構えをとってる。
上野も最前線の真田戦線での開戦に向けて、
部隊移動が開始され、
出遅れないように11/10までに利根川端まで15歳から70歳までは無足の者まで残らず動員して打ち出て来いとまで命じてる。
どんだけ北条に対して家康は脅威を訴えたんやwww
北条は家康に万が一のことがあったらと全力動員開始してたのに、
家康から北条へ、11/15付けで俺、東国の惣無事令の取次ぎの職を秀吉から任命してもらったんだー。
だから佐竹や宇都宮や結城や那須を攻めないように誓って秀吉にちゃんと返事しろよ!って言われた北条は茫然自失して騙されたと感じただろうね。
家康はホント、恐怖で被害妄想を膨らまして大袈裟に誇張する精神的病人。
だけど強いやつがいないと威張る威張る。秀吉死んだら、いままでへいこらしてた態度を豹変。
もうね、近衛の娘を秀吉が養女にしてたから、
秀頼の姉なんだが、天皇に嫁いでた。
しかし、そんな天皇にも居丈高に振舞い、
天皇の妻の弟を殺して、
大坂20万人を大虐殺した挙句に、無法状態にして、
それぞれの大名が近隣の村々から労働者を、領国へ大量の拉致連れ去り、
女子供達も大量拉致しての人売り商売を容認し、
摂津国を中心に家族離反大会大逆無道の限りを尽くして強欲を満たしたのが家康。
秀吉にビビらされた遺恨をこうやって、晴らしてストレス解消粛清をして反権力の俺ってカコイイとか勘違いしてるわけ。
完全に筋違いの意趣返しで罪のない人々を弾圧。
こりゃ小心者特有の心理状況でさ、ポルポト派か毛沢東レベルの傲慢権力者。
とても為政者とは思えん基地外。 信長と家康は関西の人々にとって仇だよホント。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、
4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
小田原奥羽征伐のために、源姓徳川長丸が秀吉の人質として上洛してきた。
すると秀吉は長丸に初めて官位官職を与えるよう推薦し、
天正18年12/29に従四位下侍従豊臣姓羽柴秀忠にしてあげました。
奥羽から帰ってきて家康は初めて羽柴秀忠になっていたことを知ったのだ。
羽柴秀康に続いて秀忠も秀吉一門にされてしまい、家康は徳川家で極端に孤立した。
そしてのちに秀忠は千姫を秀頼に嫁がせることを強行した。
だから家康は生前のうちに秀頼を滅ぼすことを急いだ。
幕府はこの家康が人質に秀康と秀忠を出した挙句に奴隷のように従軍させられた奥羽から戻ってきたら源徳川長丸が、
豊臣羽柴秀忠に豹変していて、 家康が京洛での徳川家ですっかり孤立していた事件を屈辱に思い、
天正15年8/8に従五位下になったとか、秀の字は聚楽第行幸ですでにもらっているなどと、
歴史捏造しまくったのであった。 よほど屈辱だったのだろう。
同情と共感の違いって何だろう?
「同情」は一方通行。自分から対象へ向かうワン・ウェイの感情。あるいは、対象の感情とは無関係に、自分がその対象に、一方的に感情移入している状態。
「共感」は、対象との双方向の確認・同意に基づいて、或る認識もしくは現実感を共有すること。英語で言えば、多分、Reality が最も近いと思います。
貼り付け元 <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/630356.html>
↑同情と共感は何が違うのかって気になった。
同情は一方的で共感は双方向的ってことかな。
「同情」するとき、その同情される相手を「もし、自分だったら?」と仮定してみているような気がします。要するに、
(1)苦しんでいるのが自分だと想像する
(2)うわあ、つらいなあと思う
(3)だから、相手がかわいそうに思い、慰めの言葉をかけたくなる・・。「共感」というのは、逆に、その共感する相手は他者としてしっかり認識されています。
「共感」という感情は、自分と同じ感覚を所有する人を見つけたときの喜びじゃないでしょうか?貼り付け元 <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/630356.html>
↑同情は他者を自分として見ている。
共感は他者を他者として見ている。
哀れみと喜びの違いでもあるのかな?
同情と共感の違いは、自分の思いと相手の思いの区別がついているかどうかだと思います。
相手の思いの世界をしっかり感じていないと共感は難しいでしょう。
例として、聴いた話で。
ある自閉症の子がいて、やたら空き缶を大事に持ち歩くなど、傍にはさっぱり意味の分からない行動をとり、「かわいそう」と同情されていました。
親にも全く理解できない子どもでしたが、ふとあるとき、その子がガラクタを屋上に並べていたので、隣で一緒に並べてそれを見ていたとき「ああ、この子はガラクタにこの景色を見せたいんだ」とふと気がついたそうです。この時に、この子にはこの子なりの世界があると思えるようになって、その世界へ共感できるようになったのでしょう。
同情は「かわいそう」「けなげだ」などあくまで自分の価値判断で起こる感情ですが、共感は、相手の思いの世界を実感を持って感じられるときに、初めて起こってくる思いだと考えます。
長文失礼します。貼り付け元 <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/630356.html>
↑なるほどここで大事なのが、『自分の想いに気がついた』って所なんだな。
自分の想いを自覚した上で、相手の想いに触れると同情になる。
自分の想いを自覚した上で、相手の想いを受け止めると共感になる。
クリリン「フリーザの気だ…!ナメック星で死んだんじゃなかったのか?」
ベジータ「もう地球はオシマイだ」
ベジータ「(次から次へと災難の降り掛かる地球には同情するぜ…)」
↑メカフリーザが襲来した時、恐らくベジータは『同情』したと思う。
オシマイだと自覚した上で、地球は残念なやつだと思った。
ベジータ「す…すまなかったな悟飯」
孫悟飯「・・・(あのベジータさんが謝るなんて…)」
ベジータ「(悟飯すまん…唯一お前だけが頼りだったのに…)」
↑孫悟空の道連れからセルが帰還してパーフェクトになった瞬間、ベジータは『共感』したと思う。
「もう無理!」を自覚した上で、悟飯の可能性をお互い感じてたからこそ謝罪した。
「同情」するときって、「同情」する「わたし」は、「わたし」なんです。「わたし」という「主体」は、「同情すること」と明確に距離があり、「主体」は「主体」として存続します。
「共感」というと、「同情」とは違い、無意識的に「共感すること」と、一つの共有空間を作ってしまうのです。そのとき、お互いの「主体」は、無意識的な共感空間を作り、「主体」は喪失します。
貼り付け元 <http://oshiete.goo.ne.jp/qa/630356.html>
↑同情は私を意識するが、共感は本来の私でなく新しい私を意識する。
そう考えると、しっくり来るかな。
無意識的な空間を生み出す共感ってなんか中二病みたいに広がりあって面白そうだね。