もののけ姫は命の躍動感が凄い
人はかつて、森の神を殺した。
もうこれだけで感動した。迫真というか鬼気迫るというか、ワクワク感が一気に膨れ上がる。
タイトルの演出が圧巻、これが劇場予告で見れるとかなんて贅沢なんだろう。
感動が蘇る正しい予告の仕方だ(>ω<)
アシタカ「モロ、森と人とが争わずに済む道は無いのか?本当にもう止められないのか?」
モロ「人間どもが集まっている。きゃつらの火がじきにここに届くだろう。」
アシタカ「サンをどうする気だ?あの子も道連れにするつもりか?」
モロ「いかにも人間らしい手前勝手な考えだな。サンは我が一族の娘だ。森と生き、森が死ぬ時は共に滅びる。」
アシタカ「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」
モロ「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ!人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前にサンを救えるか!?」
アシタカ「分からぬ・・・。 だが共に生きることはできる!」
モロ「フハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?」
アシタカ「違う!それでは憎しみを増やすだけだ!」
モロ「小僧、もうお前にできる事は何もない。お前はじきに痣(あざ)に食い殺される身だ。夜明けと共にここを立ち去れ」
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%BB%99%E3%82%8C%E5%B0%8F%E5%83%A7
「お前にあの娘の不幸が癒せるのか?」
黙れ小僧の後に続く、この言葉が好き。静かだけど悲しみを振り絞ったような情を感じる。
BGMも調和していてとても印象的な瞬間だった。
ジブリの中で最も神聖を感じるのはもののけ姫だと思う
主題
宮崎監督曰く、この映画にはやりたくて溜めてきた素材が三つも四つも入っている。絵コンテを読むと、エンターテイメント作品には通常不向きと思われる現代の厳しい課題が詰め込まれている。浦谷年良が整理すると、五つになる。
- 子供たちの心の空洞
- 至る所に起こる差別
- 人間と自然との関わり
- 人間の憎悪の増幅作用、殺戮へ突き進む闘争本能
- 神秘主義と合理主義の対立
問題が沢山入りすぎていてハラハラしますねと浦谷が水を向けると、監督は以下の通り語った。「解決不能な問題ですよね。今までの映画は、解決可能な小課題を作って、取り合えず今日はそれを超えたと、それをひとつのセオリーにしてきたんですけどね。それが映画の枠内だと。それでやると、現代で僕らがぶつかっている問題とは拮抗しないという結論が出たんじゃないかなぁ」。
主人公の動機
監督の論では、日本の通俗アニメーションを腐らせている一つに「動機の喪失」がある。例えば、監督が以前チベット民話「犬になった王子」(文:君島久子、岩波書店)に触発されて描いた『シュナの旅』である。ヤックルに乗る主人公シュナは、自国を貧困から掬う穀物の種、「金色の種」を求め旅に出る。この旅の動機は崇高だが、貧乏というリアリティが無い中では「胡散臭い」ものでしかない。アシタカの旅には、観客が共感できる動機が必要だった。即ち「理不尽にも傷付けられ、呪われたと自覚した少年が、その呪いを癒す鍵を探して旅をする」ことである。
更には、アシタカは自発的にではなく、村を追い出されてやむなく旅に出る。それは受難のヒーローというより、ヒーローであることを裏切り続けるアンチヒーローである。そしてヒロインのサンもまた、傷付いた自分を醜いと思っているアンチヒロインである。同じ物語を辿りながら、通常の主役であることを徹底的に裏返しにしていく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%91%E5%A7%AB
もののけ姫公開の10年前、1987年に柳川堀割物語という作品が公開された。
ローカリズムを徹底的に描いた柳川堀割物語からさらに踏み込んだのがもののけ姫だと思う。
もののけ姫は「神々しい」イメージ。
神秘性というか、秘められて神の形を表現したような作品だと思う。
もののけ姫は偉大というより、聖域に達していると感じた。