【概要】
- 考えてみれば、応援すること、応援されることって不思議だなって思う。
- 利己的な意思と利他的な意思ってどうやって形成されていくのかな?
- もしかすると人の心を補完する鍵になってるのかもしれないね。
もしもこんな美女と巡り会えたらば、応援したい応援されたいと本気で願うだろうな…!
【内容】
偉大なる先人アリストテレスが「人は社会的な動物だ」って言ってた。
人間性を語る上でそれは大前提であり、生きていればそれは体感的に分かる。
だからこそ、ハマーン様の「人は生きる限り1人だよ」ってセリフが突き刺さるんだよなあ。
漫画とかは、「人が助け合う力」ってのを盛大に説いてくれる。
何なんだ、あの妄信的なまでの団結推しはww
「仲間のためなら頑張れる!」とかってセリフ、漫画界の最頻出ワードだろ。
でも改めて考えてみると、『人が人のファンになる』ってのは不思議な現象だなって思う。
人間は独立した自我を持って生きてる。
ならば生物的に見た時、本来なら利己的であって然るべきじゃあないのか?
だけど人は応援するという行為を繰り返す。
AB「お願い!C君がんばって!!」
C「おうよ任せとけっての!!」
D「Cがどうなろうと知るかよ、勝手にしろ」
↑「応援する暇(誰かに構う時間)があったら自分を高めた方が良くないか?」
ってちょっと斜に構えた人はDを支持すると思う。
うん、冷静に考えると応援という行為は個人の時間を無駄にしてるとも考えられる。
一方で当事者からすると、応援されると嬉しいよね。
「誰かのためにがんばろう」って思えるし、急に闘志が湧いてくる。
応援されたら幸せだから、誰かに自分も応援しようって思えてくる。
「じゃあお前は人に褒められるために頑張っているのか?」と言われると寂しいけどね。
でも応援する人も「ありがとう」って言われると嬉しいし、成功すると自分のことのように嬉しい。
こういう感情って不思議だ。
直接自分の利益(金や名声)になってると実感できないのに、なぜか嬉しくなる。
それとも間接的に利益(人脈や動機)になるってのがどこか心の奥で滲み出てるからこその喜びなのかな。
渚カヲル「人間は寂しさを永久に無くす事はできない。人は一人だからね。ただ忘れる事ができるから、人は生きていけるのさ」
↑なるほど、応援という行為が孤独を忘れることを可能にしているのかもしれない。
つまり、誰かを応援するという行為が巡り廻ることで人はお互いに心を補完し合っているということかな。