1994年 - F1ドライバーのアイルトン・セナがサンマリノGP決勝で事故死。
もし死が自分をこの世から連れ去るのなら、カーブの途中で全力で連れ去って欲しい。
〈アイルトン・セナ〉
人物
時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。
異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。
母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「F1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された
ブラジル国内の反応
セナが事故死した1994年5月1日はサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。
セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラスMD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。
ブラジル政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。
ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を記念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称するなど、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。
wikipedia.org/wiki/アイルトン・セナ
一言で言えば『英雄』ですね。
例えば、ロベルト・バッジョのPKはセナの手だという説があります。
天国の門を叩いたセナは死してなお偉大な影響を与え続ける存在だったのです。
人が人を成長させる!
アラン・プロスト
事故から3か月たった今でも、ほとんど毎日セナのことを考えています。彼がいなくなったことで、僕のF1での大切な思い出が消えてしまいました。セナはレースでやる気を起こすためにはライバルが必要だという事に気付きました。セナには僕が必要だったのです。”僕”を倒すために彼は燃えたのです。でも、我々の間にはお互い尊敬の気持ちがありました。一年間レースをやめていた時でも、セナとはよく電話で話をしました。セナは、僕がいないとやる気が起きないと言っていました。「今年のセナはもうレースへの情熱を持っていない」と感じました。
彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない……それは非常に難しいことだったでしょう。
セナが僕を一番魅了させたのは ”レースで100%集中していたこと" 。簡単に100%と言うけれど、実際に100%集中するのはとんでもないことです。僕には家庭もあるし、休暇もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になります。ですから、僕の場合、95%……いや98%くらいレースに捧げていると思っています。しかし、セナの場合、大切なものはレースだけなのです。また僕の乗るマシンに何らかのトラブルが生じた時、僕ならすぐにピットに入ると思います。でも、セナは違いました。彼は本能で走ろうとするのです。今となっては、セナと共に走ったこと、それが僕にとって一番大切な思い出です。
—第1部 アイルトン・セナ Forever 内 プロストへのインタビューVTRより―
ミハエル・シューマッハ
デビュー当時のシューマッハはベテラン相手に物怖じせず、セナとの間に何度かトラブルが生じた。1992年第3戦ブラジルGPでは可減速を繰り返しながらブロックした[要出典]セナに対して、シューマッハが「チャンピオンのする行為ではない」と批判(セナはエンジンのミスファイアと発言)[要出典]。第8戦フランスGPでは、スタート直後に追突してきたシューマッハを、再スタート前のグリッド上でセナが厳しく諭す一幕があった。両者はその後ドイツ・ホッケンハイムリンクにおいて、テスト走行中のトラブルで乱闘寸前になった。しかし、1994年には互いに認め合い、安全面について話し合うこともあった。
サンマリノGPの悲劇を眼前で目撃したシューマッハは、レース後モーターホームに閉じこもり、婚約者のコリーナと泣き続けたと後に語っている。2000年イタリアGPではセナに並ぶ通算41勝目を挙げ、レースの記者会見でその感想を質問されると、突然カメラの前で号泣しはじめた。落ち着いた後、インタビュアーから41勝目という数字がなぜ大きな意味を持つのか、と再び尋ねられると、「別の質問にしてください」と返答を拒否した。
wikipedia.org/wiki/アイルトン・セナ
世代を越えて大きな影響を与える存在がレジェンドなのかもしれません。
若手が入団会見で最も対戦したいバッターに清原和博を選ぶみたいな。
「いつか三浦知良さんとサッカーするのが夢でした」みたいな。
三浦知良が中山雅史の引退を知って言葉に詰まったシーンはもらい泣きしました。
お互い長い年月を共にして戦ってきた戦友がいかに大きな存在であるか…
アラン・プロストの言葉を聞くと、切磋琢磨という言葉がいかに大切かを感じます。